3

「To strike the right balance between ends and means is both difficult and important. If you are concerned to…」
高くもなく低くもない、新一の心地良い声が教室に響く。歩美は教科書と睨めっこするのを諦めて頬杖をついた。

(新一くん、哀ちゃんと何話してたのかなぁ…)
二人は小声で話していたので、内容までは聞き取れなかった。
新一と哀は小学生のときから一緒にいる仲間だ。特に仲が良いわけではないが、彼らが話し合っているのを見ると少し嫉妬してしまうのは、歩美が新一を好きだからだ。

小学五年生で新一と同じクラスになったとき、歩美は他の男の子と違うと思った。カッコ良くて、頭が良くて、運動神経が良くて、優しくて。昔に読んだ絵本から出てきたような王子様だと思った。
同じくして仲間になった哀も大人びていて、歩美は哀も好きになった。ずっと一緒だった元太と光彦に加えて新一と哀と歩美で五人、好きな男の子と大好きな友達に囲まれてとても幸せだった。
いつからだろう、新一と哀が喋っているのを見るたびに悲しくなっていったのは。

(醜い、わたし―――)

無邪気で嫉妬という感情を知らなかった昔の自分とは違う。新一が誰かと話していたり優しくしたりしているのを見るだけで、心が苦しくなる。キュウッと心臓を締め付けられる。

『そんなに好きなら、告白しちゃえよ』

いつも相談に乗ってくれる元太は、歩美にそんなアドバイスをくれた。
(ダメなんだよ、元太くん。それは…ダメなんだ)
歩美は自嘲気味な笑みを浮かべながら、横に立つ新一を見た。
「…since forethought is difficult and requires control of impulse, moralists stress…」
流暢に英文を読んでいる新一は、歩美の視線に全く気付いていない。今も……今までも。
分かっている、新一が歩美を見ていないことは。
元太は歩美を励まそうと明るく言ってくれたのだろうが、告白したところで振られることは分かっているのだ。




去年、ある噂が流れた。
学年一の才女で美人だと謳われていた麻美先輩が新一に告白し、振られたというものだ。
それも、振った理由が『小さい頃から好きな奴がいる』だったらしい。

衝撃だった。ずっと妹の蘭ちゃんを可愛がっていたから、新一は他の女の子に興味がないと思っていた。
フェミニストとして有名な新一は女性に優しい。それに、クールでカッコイイ。女の子にモテないはずがなく、新一はこれまでに何度も告白を受けたことがある。歩美も新一が女の子に呼び出される現場を何度も見てきた。
だが新一は一度もこれらの告白に答えたことがないのだ。それは、去年まで学校のアイドルだった麻美先輩も同じだった。

歩美は麻美先輩が振られるまでずっと安心していた。新一には好きな子がいないのだ、と。これまでと変わらず新一の傍にいられると、そう思い込んでいた。

『小さい頃から好きな奴がいる』

新一が返事したというその言葉を知るまでは、迂闊にも本当に何も深く考えていなかった。 歩美はいきなり現実を突きつけられた気がした。告白する勇気すら持てず、友達というぬるま湯にずっと浸かっていた自分。

今年は受験生だ。新一と一緒の大学へ行きたくて、歩美の成績では厳しいと担任に言われた新一の志望する東都大学を受験するつもりだった。
一歩を踏み出せないくせに、新一に近づきたくて話しかける女子や仲間の哀にまで嫉妬してしまう矛盾さ。

(誰なんだろう…新一君の好きな人)
好きな人とは哀なのだろうか。『小さい頃から』というキーワードに当て嵌まる人物は、小中学校共に新一の近くにいた歩美と哀しか思い付かなかった。
新一は歩美と出会う前、哀とは蘭と一緒に遊んだ時期が少しあると言っていた。詳しく聞こうとしたら笑顔ではぐらかされてしまったのだが、その時に何かあったのかもしれない。
「……………」
自分で自分の首を絞める考えをしている事に気付いて、歩美は小さく溜め息をついた。


「そこまで!じゃあ次は…この前の小テストが悪かった小嶋君にしようかしら?」
ベルモットの声に新一は朗読をやめて席についた。
歩美は今までの考えを頭から振り払うように慌てて教科書に目を向ける。
「ええーっ、そりゃねぇよベル先生!オレが英語苦手だってこと知ってるくせにっ。他のヤツにしてくれよな〜」
当てられた元太は焦っていた。発音の良い新一の後に読むのはみんな嫌なのだ。他のクラスメイトたちも同様らしく、元太に読ませるように揶う様に野次を飛ばす。

教室がザワザワする中、歩美は隣の新一を見た。
新一は自分の仕事は終わったと言わんばかりに無関心で、つまらなそうに薄い青色の空を眺めている。

(それとも、他に誰かいるのかな…)

横顔からは新一の真意は到底掴めそうになかった。
真っ直ぐに空を見つめるその視線の先には、一体誰の姿が映っているのだろう。










4

コンサートが終わり園子と蘭は電車で帰路についていた。
電車の中はクーラーがついているが、気温が低いので外とあまり温度差はない。じめっとした空気からは開放されていて心地が良い。

窓から外を眺めると、外は一面の曇り空。
七月も下旬だというのに梅雨はまだ明けず、夏休み始まってすぐの三連休である今日も空模様はぐずついている。
週間天気予報によるとずっとこんな状態が続くらしい。どのテレビ番組も『曇り時々雨、一時的に雷雨になるでしょう』と、同じことを繰り返す。


せっかくのコンサートだったのに盛り上がりにいまいち欠けた気がする。来週には蘭と海に行く予定なのに、快晴じゃなかったらテンション駄々下がりだ。園子は今にも雨が降りそうなぶ厚い雲の層を見るとうんざりとした。

「はぁ〜〜〜〜〜〜っ」
「どうしたの園子?大きな溜め息なんかついちゃって。コンサートであんなに盛り上がってたのに」
園子の顔色を伺うように蘭が首を傾げた。
「コンサートは滅茶苦茶良かったわよ?もうウットリーって感じ?」
園子は両手を交互に重ねながら大げさな表情をした。コンサートでの熱い空気を思い出したのか、蘭も勢いよく笑顔で頷いて同意する。

「でもこんな太陽の当たらない天気だったらせっかくの興奮も半減ね。わたしは夏らしい夏ってのを満喫したいのよ!このままじゃ来週の海水浴だって危ういわよ?」
「涼しくていいんじゃない?」
「何言ってんのよ蘭!もし雨なんか降ったら遊びにくる男が減るってことよ。男が減るってことはつまりナンパされる率も低くなるわけよ。分かる?」
園子は妙な理屈を付けて、拳を震わせながら力説した。
大きな声に乗り合わせた近くの数人がこっちを見ているが、園子はそれに気付いていない。
「ナンパって…。園子には京極さんがいるじゃない」

園子の恋人である京極真は帝丹高校の隣の杯戸高校空手部主将である。 恋人といっても真の頭にあるのはまず空手のことで、偶に素っ気ない電話がくるくらいでデートもままならない。

「こんなカワイイ彼女を放っておいて夏休みも毎日練習してる空手バカなんて知らないわよ!こっちはこっちで楽しんでやるんだからっ」
鼻息を荒くして、園子は踏ん反り返った。
「そうだ、海水浴のことで思いだしたんだけど、海に行くって言ったら新一が『ダメだ』って……。どうしても行きたいなら、『オレも行く』って……」
蘭は申し訳なさそうに苦笑いした。
「また!?あのシスコン兄貴は〜。これで何度目よ」


蘭とは高校に入ってからの友達だ。
二代で財を成した鈴木財閥の娘である園子は世間でも有名な名門私立女子中学校に通っていた。だが昔から他のお嬢様とは合わなくて、大学まで我慢しきれずに頼み込んで、高校は普通高校へ通わせてもらえることが出来た。

我が儘を許してくれた父親にはとても感謝している。何て言ったって、真と蘭という人生で大切な存在と出会えたのだから。
今まで表面的な友人しかいなかった園子は、蘭を一生の友達―――親友としてずっと仲良くできたらいいなと思っている。

蘭は可愛くて素直でスタイル抜群で、園子から見ても魅力的な女の子だ。こんな子に彼氏が出来ない訳はなくずっと不思議に思っていたのだが、蘭と付き合うようになってきて数ヶ月、その理由が分かってきた。

新一が蘭の行動を干渉しているのだ。
園子と蘭が遊びに出かけるとなると行き先を詳しく聞き、送り迎えに来たりする。学校の帰りにゲームセンターに行ったときは何だかんだ理由を付けて、一緒に付いてきたこともある。

今日のコンサートだってそんなに夜遅くにはならないのに、蘭を迎えに駅に来るという。 義理のお兄さんということは蘭から聞いて知っているので、義理の妹が心配なのは分かるが、度を超していると思う。
受験生なのにそんな暇はあるのかと問いただしたい気持ちだが、そんな暇があるくらいに成績優秀だと知ると、新一は園子にとってイケすかない男でしかなくなった。

「で?他に何か言ってきてんの?」
「水着の上に何か羽織るものを着ろって」
「…まるで彼氏気取りね」
血の繋がりがないといっても新一と蘭は兄妹なのに、普通そのような恋人同士みたいなやり取りをするだろうか。新一の蘭に対する態度はとても甘く優しくて、恋人同士と言ってもいいくらいだが。
全く、とんだシスコンだ。
「そんなことないと思うけど。ただ心配してるだけだよ?新一って意外と保守的だし」
「あ、そう……」
のん気に笑う蘭を見て、園子は脱力した。

電車が米花駅に着いた。土曜の夜だが乗客は多く、夏休みに入ったからなのか若者の姿がやけに目につく。一緒に降りてきた群衆の流れに沿って、園子と蘭は改札口へ出た。


外へ出ると、向こうの雲が渦巻いているのがすぐに分かった。暗くどんよりと、だが確実に雲は米花方面へ移動している。どうやら一雨来そうだ。急いで帰った方がいいだろう。

園子は駅のロータリーを見渡した。すると直ぐに鈴木家の大きな高級車が目に付いた。迎えの車の方も園子に気付いたらしく、改札口へと緩やかに移動して来る。
「ウチの迎えは来たけど、蘭のとこのお兄さんは?もう来てる?」
「うーん…もういると思うんだけど。……あ、新一!」
蘭がキョロキョロと周りを見渡すと、一つ向こうの大きい柱の陰から新一が出てきた。蘭と目が合うと、新一はとろける様な甘い笑みをした。それを見て園子は形の良い眉を顰めた。

「おかえり蘭」
「ただいま!」
「何たらっつーアイドルのコンサートはどうだったんだよ?」
「何たらって…アンタねぇ…」
この園子様が目に入っていないかのよう…いや、蘭の他には誰も目に入っていないのだろう。
「ちょっと、あんた達なにラブラブしちゃってんのよ」
「もうっ何言ってるのよ、園子!」
「んなんじゃねーよ。迎えの車来てんだろ?早く帰れっての」
手をプラプラさせて新一は園子に帰るように促した。全く、腹の立つ男である。
「分かってるわよ。雨がもう降りそうだから、気をつけて帰んのよ二人とも」
「ああ、じゃあな」
「じゃあまた電話するね、園子」

後部座席に乗り込み運転手と少しの言葉を交わす。横窓から駅を覗くと、蘭は園子に向かって手を振ってきた。園子も蘭に答えるように手を振る。

静かに車が動き出した。
「大雨がそろそろ来そうですねぇ園子お嬢様」
鈴木家に長年勤めている初老の運転手はゆったりとした調子で園子に話しかけた。高級革に埋もれるように深く腰掛けていた園子は目線を外に向ける。 「…そうね」

空は益々灰色に渦巻いてきている。
フと意識を巡らせる。 どうして今まで気付かなかったんだろう。 兄妹である新一と蘭。恋人同士のように仲が良い…そう、恋人同士のように。
「…………」
園子は思考を消すように首を振った。まだ結論は出すべきではない。どちらともはっきりと気持ちを聞いたわけでもないのに、想像したってしょうがないだろう。

渦巻く雲は園子のモヤモヤとした頭の中を丁度表しているように見えて、何となく気に入らない。 新一と蘭のことも、来週の海水浴のことも。それに、最近会っていない恋人のことも。
これだから曇りも雨も嫌いなのだ。早く梅雨が明ければいいのに。
スッキリしない頭を抱えながら、園子を乗せた車は駅から遠ざかって行った。





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