5

園子を見送った後、蘭は迎えに来てくれた新一と駅を出て歩き始めたが、しばらくして雨が降り出してきた。 ポツリポツリとしたと思ったら、直ぐに大雨になった。周りの人たちも持っていた傘を開いたり、どこかへ向かって慌てて駆けこんでいく。駅までの主要道路から狭い道に入ると一気に人影がなくなった。
雨の降る前までに家に着きたくて少し早足で歩いていたのだが、それも無駄に終わってしまった。

「もうちょっとこっち寄れって、蘭」
新一は右手に傘を持ち、もう左手は蘭の肩をより強く抱き寄せてきた。
「う、うん…。ねぇ、雨宿りしたほうがいいんじゃない?」
蘭は思いつきで提案してみたが、この辺りは閑静な住宅街で門構えがしっかりしている家が多く雨宿り出来るスペースはなさそうだった。コンビニなどの店もない。
「どっかで雨宿りするより、このまま家に帰った方が速ぇよ」
思った通りの返事が隣から返ってくる。 肩を寄せ合い、新一と蘭は気持ち早めに歩いた。
激しい雨で蘭の足は膝下までびしょ濡れだった。少し高めのヒールのサンダルはもはや機能を果たしていない。むしろ素足で走りたい気分だった。
「っていうか、何で私の傘一本しか持ってないのよ。雨降るって分かってたでしょ?」

今差している傘は蘭のお気に入りの傘で、薄いベージュ色の布地に白いボーダー入りの傘だ。柄が普通の傘より細いので、女性用とすぐに分かる。大人二人が入るには少し狭い。
雨が降ることは分かっていたのに、予め二人分の傘を持っていないのは、準備のいい新一にしては少しおかしいと蘭は感じた。

「………持ってきたけど、あげた」
「はぁ?」
「俺の傘も持ってたには持ってたんだけど、さっき駅で小学生くらいの女の子に会ってな。何でも出張に行ってたお父さんを迎えに来たって言ってたんだけど、傘を持ってなかったんだよ。今夜は雨降るの確実だろ?んで、俺の傘をあげた」
「そうだったんだ。でも近くのコンビニなら透明な傘売ってたんじゃ…」
「金持って来てねーし」
「………バカね」
「うっせ」
照れくさそうに顔を背ける新一に、蘭は笑みを零さずにいられなかった。
我が兄ながら不器用な優しさが心を暖めてくれる。
新一は言葉が足りないときがあるし時々何を考えているのか分からないときがあるけど、基本的にはとても優しい。

「いつまでも笑ってんなよ。身体まで濡れるぞ」
「…っ、新一の方がよっぽど濡れてるじゃない!右肩びしょ濡れよ!?」
蘭の方に傘を差していて、新一の肩は傘から飛び出て完全に雨に降られている。Tシャツの袖は色が変わり、濡れて新一の肌に張り付いていた。
「大したことねぇよ」
新一は何でもない風に笑ってみせた。
「でも早く帰ってお風呂に入らなきゃ」
「…一緒に入るか?」
悪戯っぽい、軽い口調で新一は蘭をからかってきた。新一の一言に、蘭はカチンとなる。
「何言ってんのっ!?バカ言わないで、新一となんて入れるわけないじゃないっ!」
思いがけず大きな声が出てしまい、蘭はハッとなり、すぐに後悔した。
こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
新一は少し寂しげな表情を浮かべた。
上手い言い訳が咄嗟に見つからず、蘭は謝るタイミングを逃した。
「分かってるよ。冗談だから」
冷たく聞こえた新一の声に突き放された気がして、蘭はますます言葉を失った。
それ以降、蘭は新一を見ることが出来なかった。
それまでの和やかな雰囲気は一転し、お互いに気まずくなる。家に帰るまでついに新一も蘭も、一言も喋らなかった。




部屋に戻ると、蘭はクローゼットの中から着替えの服を取り出した。本格的に濡れてはいないが、雨の飛沫で服が湿っていたから。
新一には「さっさとお風呂に入ってよ」と伝えたから、きっと今はお風呂に入ってるはずだ。顔を見ないままにさっさと部屋に来てしまったから、返事は聞けなかったけれど。

「さっきまであんなに笑ってたのにな…」
新一は何気なく冗談で言っただけだろうに、過剰に反応してしまった自分が情けない。もう大丈夫だと思って海水浴の返事をOKしたのに。
蘭がいつも体育の着替えでは必ずキャミソールを着て隠しているものがあることを園子や他のクラスメイトの女の子たちは知らない。内緒にしているのは心苦しいけど、見ていて気持ちのいいものではないから。


鏡の前に立つ。
湿気で少し重くなった上着を首に通して脱いだ。服は腕をすり抜け、静かにするりと床に落ちる。
蘭は鏡に写った自分の下着姿を見つめた。

細い体つきの割りに豊かな胸とくびれのある腰。白くて細い、丸みを帯びた柔らかな身体は年のわりに大人びていると言われる。自分の身体は幼かった頃と比べて随分変わったが、一つだけ変わらないものがあった。
女らしい曲線を描く背中は今は長い髪に隠されていた。 蘭は鏡に背中を向けて、右手でそっと髪をかき上げる。
過去の…幼かった自分が映し出される。こうして背中をしっかりと見るのはいつぶりだろう。

「何であんなこと聞くのよ……知ってるくせに」
背中には、右肩甲骨から左腰にかけて一文字の傷の跡がうっすらと残っていた。











6

―――蘭のやつ、まだあの傷のことを気にしてるのか…。
シャワーを浴びて適当に体を温めた新一は浴室の棚からバスタオルを取り出した。手早く体と髪の毛を拭いて、Tシャツとスウェットに着替える。早く蘭に風呂に入ってもらおうと思うと自然と動きも早くなる。
頭を冷やすために水シャワーを浴びたかったが、後で風邪になると蘭に怒られるだろうなと思い、逆にいつもより熱めのシャワーにした。
何気ない冗談が蘭に嫌な思い出を甦らせてしまったことに、新一は深く後悔していた。
蘭が背中の傷を気にしていることは知っているが、思っていた以上に蘭の心に住み着いているらしい。あれからもう何年も経つのに蘭の気持ちを酌めなかった自分の馬鹿さ加減に、たまらなく腹が立つ。
「くそっ…」
新一は洗面台の鏡を右手で殴った。髪から滴り落ちる水滴が反動で鏡に水滴がいくつか飛び散る。鈍い痛みが手の全体に伝わってくるが、ちっともスッキリしない。

蘭は園子と海へ行くと言ってきた。蘭は背中の傷の為、今まで友達と海やプールに行くことをしなかった。どうしても水着になる必要があるからだ。学校の水泳はスクール水着なので背中が見えることはないので休むということはしなかったはずだが、着替えのときは誰にも見られないように気を使っていた。
来週の海水浴ではナンパ男対策も含めて水着の上にパーカーを着ろと言っておいたが、蘭のことだ、きっと背中が隠れる水着を着るに違いない。

そんな慎重な蘭が海に行くということは、それだけ園子の存在が大きいのだろう。高校に入ってから蘭はよく笑うようになった。長い年月をかけてようやく蘭の心を溶かしてきたのに、付き合いの短い園子に懐くのは正直言って嫉妬心がおさまらない。灰原に園子に…何故こう強力なライバルが増えて行くのだろう。

「全部俺のせいなんだけどな」
―――蘭を放っておいた罰。
自重気味に笑うと、新一は頭にバスタオルを乗せて再び荒く拭き弄った。そのまま浴室を出ると、ミネラルウォーターを取りにキッチンへ向かう。

冷蔵庫からペットボトルを取り出し、一気に喉を水で潤わせた。乾いた喉に染み渡るようで新一はホッと一息つく。蘭を風呂に入るよう呼ばなければ…そして先ほどの不用意な発言を謝らなければ。
ふと視線をリビングに漂わせると、思いがけないモノを見た…気がする。嫌な予感がしながらも、ソファの先からはみ出しているモノを認識する。
……アレは…人間の足だ。


―――いい加減にしてほしい。
新一は言葉に出したい文句を心の中で呟くと、溜め息と共に肩を落とした。
目の前にいるのは、ここ最近ずっと新一を不眠症にしている原因だった。

現在、この家には新一と蘭しかいない。
優作と有希子は再婚した当初から変わることなくいつまでも新婚気分で、先週から取材旅行と称し海外へ行っているのだ。気分屋の二人らしく国を転々としているらしく、帰って来る日は決まっていない。 帰国するという連絡も前日にあるだけだろう。
「蘭……」
ソファに近づき、夢の世界にいる蘭を呼びかけた。

思春期の男にとって好きな女と一つ屋根の下で暮らしている事実は辛すぎた。しかも血の繋がっていない妹とくれば手を出すにも出しようがなく、苦悶の日々を送るしかない。
推理小説を読んでるからと言って眠そうにしているのを誤魔化しているが、これは蘭と二人きりで暮らすときの言い訳である。
優作と有希子がいれば仮面を上手く被り、優等生で妹を大事にする兄の演技が出来る。だが、そうでなければ理性は容易く崩れそうになってしまう。
今も……ほら。

新一は蘭の頬に一房掛かった髪を手で後ろに流した。
キッチンから漏れる少しの光で、蘭の顔に影が出来ていた。無防備な姿で肢体を投げ出す蘭はピクリともしない。だが小さく開いた唇から漏れる呼吸と僅かに上下する胸が、蘭が生きていることを実感する。
確かめるように、蘭の頬を撫でた。
―――温かい。
妹に欲情するなんて、どうかしている。
両親のいない今、蘭を大切にしたい気持ちと蘭を抱きたい気持ちがせめぎあっている。それは氷上に立っているようなものだった。 道を踏み外すと、家族が不幸になるのは分かりきっている。 何より、蘭に嫌われたくない。

「蘭…」
蘭を守りきれなかった幼い頃の罪悪感が蘇る。 あの時の思いはもう二度としたくない。
誰も好きになりたくてなったわけじゃない。蘭は妹だけど、妹だと思ったことなんて一度もない。
新一の手の平と蘭の頬。触れ合う部分が熱を持ち、一瞬で飽和点に達した。
理性が崩れた瞬間。
そうするのがごく当たり前だという風に、新一はその柔らかな唇に躊躇いなくキスをした。
「しん、いち…」
「―――っ!」
長いとも短いともいえるその間に、完全に寝ていると思っていた蘭が瞳を開いた。





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