雪月花




side 蘭

「あれ…雪……?」
季節は一月下旬。部活が終わった学校の帰り、蘭はふと目の前に降りてきた粉雪に気付いた。
「別に雪の降るような天気じゃないのになぁ…」
空を見上げると、果てしない淡い青色の世界が蘭を見下ろしていた。
強い風に巻き上げられ踊り舞う雪と空の青さの美しさに泣きそうになる。


突風と突然現れた雪は、まるで新一みたいだ、と蘭は思う。
やっかいな事件を抱えて帰ってこれない新一はいつもいきなり蘭の元に姿を現す。でも一緒にいれる時間は長く続かない。
束の間の日常を過ごしたかと思ったら、短く鮮烈な印象を残したまま、別れの一言も言わずにどこかへ消えてゆく。
雪のように、その手を伸ばして掴もうとするとあっという間に消え去ってしまうのだ。

『死んでも戻ってくるから、蘭に待ってて欲しいんだ』

その言葉は蘭を静かに縛り付ける。
死んでもなんて、言わないで。生きて、元気に帰ってきて。

あれから随分時が過ぎた。
コナンの正体に気付いたのは少し前のこと。それと重なり、コナンは頻繁に阿笠邸に出入りするようになっていた。泊まる事も多くなり、あまり寝ていない様に思えた。
「博士が作ったゲームが面白くってさ〜」とコナンは言っているが、本当は別の所に真実があることを自分は知っている。

先日の朝方、つい弱音が出て快斗の腕の中で涙してしまったことは、本当に申し訳なく思う。何も言えない彼を困らせてしまった。
だが快斗の様子からも、コナンの周りで計り知れない何かが迫っていることだけは分かった。


最近は新一としての電話やメールも数が減っていた。 近いうちに新一が帰って来るかもしれないという予感がどこかある。 でも、この思いの行き場所を求めて苦しくなる。
自分は足手まといになるってことは分かってるけど。
何か少しでも新一の力になれないの?
なぜ何も教えてくれないの?服部君や博士や哀ちゃんは正体を知っているのに。
心配すらさせてくれないの?

自分は我が儘なのだろうか。遠距離恋愛をしているわけでもないのに。
恋人でさえ、ないのに。

自分の置かれた立場を改めて思うと、何だか情けなくなってきた。
繋がっているのは、ただ幼馴染という肩書きだけ。

待ってても、いいの………?

そんな考えが蘭の頭をよぎる。一人きりで道端にただずんでいる内に切なさがどうしようもなく押し寄せてきたのか、蘭は弱気になっている自分に気付いた。はぁ、と溜め息をついて口元をマフラーで隠すように覆う。

新一が帰ってきたら…私はどんな顔をして彼に会える?

蘭は小雪がパラパラと降る中、下を向いて歩き始めた。


(蘭……)

「え?」

蘭は足を止めた。自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
しかもそれは、新一の声で。
新一のことを考えていたせいで幻聴でも聞こえたのであろうか。
気のせいかと振り返ってみたが、新一はいなかった。
小さな子供の手を引いたお母さんと視線が合いちょっと気まずい思いをしながら遠くも確認したが、無駄に終わった。車の追いかう道路の向かい側も同じで、蘭を見ている人は誰もいない。

新一の声がどこかでしたのは間違いない。
……よく分からないけど、新一が呼んでいる。
蘭は自然と走り出していた。




道の角を曲がると、新一の家の一角が見えた。工藤邸の周辺は閑静な住宅街にあるせいか、いつも人通りが少ない。蘭とすれ違う人は誰もいなかった。
蘭は逸る気持ちを抑えて、最後の角を曲がった。
門の前には新一……ではなく、コナンの姿があった。

コナンは薄手の黒色のタートルネックとベージュのズボンという冬にしては寒そうな格好をしていた。少しの間立ちすくんでいたのか、頭と肩にうっすらと雪が積もっている。新一の家を見上げるコナンの瞳は何かを決意した目をしていて、静かに溢れる闘志で満たされていた。

立ち止まってじっと見ていた蘭の視線に気付いたらしく、コナンは驚いて後ずさった。
「ら…蘭姉ちゃん…」
「…どうしたの、コナンくん?新一の家の前で」
「あ…いや…阿笠博士の家でゲームやってたんだけど、もう事務所に帰るところだったんだ」
先ほどの大人びた表情から一転して、コナンは笑顔一杯で蘭に答えた。
「そうなんだ。でも、最近コナンくん阿笠博士の家に毎日行ってるわね〜。博士の作った新しいゲームソフトそんなに面白いの?」
「そうなんだ!なかなかクリア出来なくて次のステージに行けなくってさ〜」
「ゲームのやり過ぎは駄目よ?一日一時間くらいにしないと。…じゃあ、お家に帰ろうか?」
「はーい!」

「コナンくん、雪も降ってるのにこんな薄着で出かけちゃだめよ?ただでさえ風邪よく引くのに…ほら、これ」
蘭はコナンに積もっていた雪を手で軽く払うと、自分の首に巻いていた薄桃色のマフラーをコナンの首に巻きつけた。
コナンは頬を赤く染めて、蘭にありがとうと礼を言った。



コナンと蘭は手を繋いで、並んで歩き出す。
「それにしても、蘭姉ちゃんの方こそどうしたの?新一兄ちゃん家に何か用事でもあった?」
「ううん…。何となく、新一に会いたいなぁって思っただけよ」
蘭の言葉の調子に気付いて、コナンは蘭を見上げた。

蘭の目尻には薄っすらと涙が浮かんでいた。粉雪が顔にちらつくのも構わずに上を向いて、天気とは裏腹な薄い青色の空を眺めていた。
「………ねぇコナンくん。新一は、いつ帰ってくるかな?」
「……………」
意地悪な質問だったのかもしれない。
蘭は少し感情に任せて言ってしまったことを後悔した。

問われた真剣な瞳に、コナンは蘭と繋いだ手をぎゅっと強く握った。眼鏡の奥から真剣な瞳が蘭に返って来る。
「蘭…姉ちゃん、大丈夫だよ!新一兄ちゃんはきっとその内に帰ってくるよ!僕、新一兄ちゃんは近いうちに帰って来るって気がするんだっ。僕の予想って結構当たるじゃない?ほら、この間テレビでやってたミステリードラマだって犯人当てたし!だから蘭姉ちゃんは心配しなくていいんだよ!きっと…きっと帰ってくるから!!」

必死になって蘭を励まそうとするコナンに、蘭は指で涙を掬いながら優しく笑みを浮かべた。
「ありがとう、コナンくん。コナンくんがそう言うなら、新一きっとすぐ帰ってくるわね」
「そ、そうだよ!きっと直ぐだからさ!」



通りに面している毛利探偵事務所前の歩行路に出ると、寒さに負けずに集団で走りながら帰宅する子供たちがコナンと蘭の隣を横切って行った。その元気な姿を見つめて嬉しそうに眺める蘭に先ほどより元気な様子にホッとすると、コナンは努めて明るく言い放った。

「蘭ねえちゃん…僕、外国行くことに決まったんだ」
「……え!?」
突然のことに、蘭はコナンの言っていることを理解するのに間を要した。

「外国って…お母さんの所に、行くの?」
「うん。すごく急なんだけど、明後日お母さんが迎えに来るんだ。本当に急に決まったことだから、蘭姉ちゃんやおじさんに迷惑かけちゃうけど…」
「そんな…迷惑だなんて…」

「ごめんね…?」
「ううん!謝ることなんてないのよ?家族と一緒に暮らすことが出来るんだもの、素敵なことよ。でも、寂しくなっちゃうな…」

蘭はちらりとコナンを見た。
その顔は蘭に向けるいつもの無邪気な子供ではなく、殺人現場にいるときによく見せる子供らしくない表情をしていた。

「蘭ねえちゃん、僕外国に行っても頑張ってくるからね!蘭姉ちゃんを守れるくらい大きくなって帰って来るから…!」
「うん…ありがとう。コナン君がおっきくなってカッコ良くなって帰ってきたら、きっと私ビックリしちゃうんだろうな〜。何か手伝うことはない?ほらっ、外国に引越しするならやること色々あるでしょ?私結構力持ちだし、何でもするよ?」
蘭は片腕を上げてガッツポーズをした。

「だ、大丈夫だよ!蘭姉ちゃんは何もしなくて!明日お母さんが来て色々手続きやってくれるからさ」
「…そう?遠慮しなくてもいいのに〜」
「そんなに荷物もないから、僕一人で大丈夫だよ」
「そっか。外国に行くならお土産買わなくちゃね。やっぱり日本食かなぁ〜?…あっ、それなら今日と明日のお夕飯もご馳走にしなきゃね!コナンくん、何食べたい?」
「じゃあ…ハンバーグかな」
「コナンくんハンバーグ好きだもんね!じゃあハンバーグと…サラダと、寒いから熱々のコンソメスープ作ってあげるね」
「うんっ」
コナンは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ事務所には帰らないでこのままスーパーに行った方がいいんじゃない?ボク買い物の荷物持つよ」

毛利探偵事務所はもう目と鼻の先だったが、コナンとしては蘭と出来るだけ長く手を繋いでいたかった。
「そうだね、そうしようか。コナンくん悪いんだけどお願いできる?」
「うんっ」
にっこりとお互いに微笑み合ったコナンと蘭は、本当の姉弟の様に仲良く並んでスーパーへと向かった。



***



明日というのは、あっという間にやってくるものだ。
蘭はお風呂上りで濡れた髪にドライヤーをかけながら、しみじみとそう思う。

今現在夜の11時で、明日の朝になるとコナンのお母さんがコナンを迎えにやってくる。小五郎は今日から町内会の旅行で箱根の温泉に行っていて、今夜はコナンと蘭の二人きりだ。昨夜の夕食のときに、小五郎は突然コナンが去ると聞いて散々コナンに文句を言っていたのを思い出す。

コナンは小五郎の部屋で大きなスポーツバッグに最後の荷物を入れている途中だ。実際コナンの荷物は少なくて、衣類やお気に入りだったサッカーボール、それに少しの雑貨と貴重品程度だった。…蘭が提案した日本食のお土産はコナンに丁重に断られた。
コナンの全ての荷物はたった一つのスポーツバッグに収められてしまうほどだったのだ。

あんなに一緒に暮らしたのに。

蘭はドライヤーのスイッチを止めて乾いた髪を櫛で軽く整えた。鏡に映る自分を見て気合を入れると、部屋を出て隣の小五郎の部屋をノックした。

「は、はいっ。どうしたの、蘭姉ちゃん?」
扉の向こうから少しだけ上ずった声が聞こえた。蘭はドアをゆっくりと開けて、部屋の様子を伺った。小五郎のベッドの横に敷かれた布団はコナンが来たときから何ら変わっていなかった。コナンは布団の上で、蘭とお揃いのパジャマを着て荷物を整理していたようだ。

「準備はどう?」
「うん…あとこれを入れるだけだよ」
コナンはバッグの回りにある細々としたものを指差した。

「コナンくん、準備が終わったら……今日は一緒に寝ない?」
「……へ!?」

コナンくんと過ごす最後の夜、どうしても一緒にいたかった。

「だって…コナンくんと一緒にいれるの…最後なんだもん………ダメ?」
「……蘭ねえちゃん…」
コナンは驚きを隠せないようだったが、蘭の心情を汲み取ったのか「蘭ねえちゃんがそうしたいなら…いいよ」と答えた。




先ほどの蘭の衝撃の発言から三十分後、コナンは恥ずかしながらも、蘭の部屋に…ベッドに入ってきた。入ってきたというより、遠慮がちになって中々動こうとしなかったので蘭がコナンの腕を引いてベッドに入れたのだが。

「ほらほらコナンくん、そんな隅っこじゃ朝になったらベッドから落ちちゃうわよ?寒いんだから風邪なんか引いちゃ大変だから」
蘭はそう言うとベッドの端にいたコナンを引っ張って、蘭との距離を縮めようとした。
「ら、蘭ねえちゃん…!」

ワーワー言いながらも、何とか適度な距離を保つことに成功したコナンはホッと一息を付いた。蘭は恥ずかしがるコナンを見て淡く微笑んでいる。

「蘭ねえちゃん、どうしたの…?」
「ん?本当に今日がコナンくんとの最後の夜なんだって思ったら、寂しくなっちゃって…」
「ボクも蘭ねえちゃんと離れるなんて…凄く寂しいよ」
「もっとコナンくんといたかった。もっとコナンくんとお喋りしたかった。もっとコナンくんのことを知りたかったよ」

電気の消された中でも、時間が去って暗闇に目が慣れたせいで隣の蘭の顔が良く見えた。蘭の大きな瞳が、震えているのが分かるほどに。

「蘭…姉ちゃん…」
掛け布団の中で、蘭の手がコナンの手に重なった。
「コナンくん……待ってるから。…ずっと待ってるから、また米花に帰って来てね?」

コナンは重ねられた手をぎゅっと握り返した。
「必ず、蘭ねえちゃんにまた会いに来るよ。絶対に」
自信たっぷりの笑みを浮かべて、コナンは蘭に約束した。




数時間後、可愛い息を吐きながら眠る蘭に、コナンはこっそりと頬にキスをした。蘭は「うぅ〜ん…」と寝言を言ってコナンに背を向ける。一瞬ビックリしたが、蘭は一度寝ると朝まで目を覚ましにくいと知っているのですぐに安心して、思う存分蘭の姿形を食い入るように見つめた。

背を向けたままの蘭は瞳をパチパチとさせ、顔を真っ赤にしていた。実はずっと起きていて、コナンの様子を伺っていたのだ。
寝たふりをしていたのは失敗だったのかもしれない。

「ごめんな、蘭……」

恥ずかしさで蘭が悶えていると、背中越しにコナンの小さな呟きが聞こえた。
その言葉はとても哀しげな響きを携えていて、苦しげな心情を吐露していた。
振り向きたいけど、振り向けれない。

「全てが終わるまで待っててくれ……。すぐ、終わらせるから」

新一の、バカ……

蘭は目を瞑り、胸元に手をやり毛布をギュッと掴んだ。
新一がもうすぐ帰って来るという確信と最後まで真実を告げてこないコナンに、蘭は心配と怒りで頭がごちゃごちゃになった。

落ち着こうと暫く頭を冷やしていると、コナンも眠れないのか時々「ハァ…」という溜め息を吐きながら布団の中でもそもそしていた。だからといって蘭は声を掛けるわけにもいかず、お互いに眠れぬ夜を過ごす。
カーテンに隠された三日月が朝になり、その姿を消すまで。








Conan



蘭ちゃんはコナンの正体を知りつつも最後までコナンから話してくれるのを待っているのに、コナンは最後まで己の嘘を突き通すつもりのようです。
お互いに思い遣っているのに何故かすれ違うところが快斗に隙を突かれるのではないかと。

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