No One




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「ほら蘭、新一君にご挨拶しなさい」

有希子が後ろに隠れている蘭の肩をそっと押して促した。不安げに母親の顔を何度も見上げながらもようやく決心がついたのか、蘭は目の前に立つ新一に向き合う。

「はじめまして、蘭です。これからよろしくお願いします。……しんいち…お兄ちゃん」

恥ずかしげにたどたどしく紡がれた微笑みはとても印象的で、新一は一瞬見惚れたあと我に返った。

「あ、ああ…オレは新一ってんだ。よろしくな、蘭」
「こんな息子だが、よろしく頼むな蘭ちゃん」

優作が新一の頭をポンと撫でる。妹となる蘭の前で子ども扱いされたことが嫌で新一は文句を言いたげに優作を睨んだ。優作は新一の態度を軽くかわすと、飄々とした表情で有希子に話しかける。

「さあ、お祝いのワインでも頂こうか?」
「いいわねー!新一くんと蘭にはオレンジジュースを持ってくるわね。すぐに用意するから座って待ってて」
「一人で大丈夫かい?何なら私が用意するが…」
「大丈夫、これが工藤有希子としての主婦の記念すべき初仕事なんだもの。やらせてちょうだい?」
有希子は軽くウィンクをしたあと鼻歌をしながらキッチンに入っていった。母親がいなくなり一人きりになった蘭に不安が押し寄せる。所在なさげに視線を彷徨わせると、優作と有希子が話していた間沈黙を守っていた新一が口を開いた。

「ったく、頭撫でるのやめてくれよなー」

新一は口に手を当てて優作にこそっと告げた。

「おや、前に阿笠博士の無くし物を見つけたときに頭を撫でられたときは嬉しそうに得意げな顔をしていたと記憶しているが?」
「―――あん時とは状況がちげぇんだよ。女の子の前で…しかも妹になる子の前で……」

最後の方は口を濁ませて尻つぼみになっていった。要は男の小さなプライドが刺激され怒っているらしい。優作はそれに気付き薄く笑みを浮かべた。

新一は幼い頃からずっと一人で遊ぶことの方が多く、いつも小説を読んだりお隣の阿笠博士と過ごしていた。同級生と遊ぶよりは家にいて知識を蓄えることのほうが面白いらしい。時折優作の友人である目暮警部が優作を頼って事件の推理を聞きに来るときには新一も一緒に席に着き、強い興味を引かれる事件については目暮を質問攻めにすることもままあった。

頭の回転が速く大人びている反面、感情の起伏が少なく聞き分けの良過ぎる子であったのも事実だ。片親しかいないということで苦労を掛けたことも沢山あったが、新一は優作に文句を言ったことがない。感情を素直に出して意見をいうことすら珍しく、このように照れるところを見たのは久しぶりだ。
妹が出来るお陰で、良い方向に刺激を与えてくれるのかもしれないと優作は思った。
「それは悪かったね。これからは気をつけよう」
「……どうも」

様子を眺めていた蘭は二人が何のことについて言い合っているのか分からなかったが、自信たっぷりで堂々とした態度だった印象の新一が優作の前だと態度がまるで変わって面白い。蘭は緊張していた体の力がすっと抜けて初めての笑顔を零した。
今にも泣きそうな不安げな顔をしていた蘭を心配していた新一もホッと一安心して、これから一緒に暮らす新たな家族と生活に胸を馳せた。










「ほら新一、行こう!」
「………おう」
「もう、新一ってば元気ないっ。ちゃんと朝ご飯食べたの?」
家の門を閉めて蘭は隣で眠たそうにしている新一に喝を入れた。

「…食べたよ。オメーも一緒だったじゃねーか。つか元々俺は低血圧なの」
大きく口を開けて新一は欠伸をした。目尻には涙が滲んでいる。
「ウソ。どうせ徹夜で推理小説読んでたんでしょ?目が赤いもの」
「バレたか。昨日本屋で面白そうな本見つけてさ。読んだら止まらなくなって、ついな。オメーにも今日家に帰ったら貸してやるよ。犯人は結構すぐに分かったんだけどトリックがなかなか解けなくて苦労したんだぜ?」
「それで徹夜ってわけ?もう…新一の推理小説オタクは一生直んないわね」
蘭は半ば呆れながらも二人一緒に並んで学校に向けて歩き出した。

二人が通う帝丹高校まで徒歩十五分かかる。
学校が同じだととはいえ、家族だからと一緒に通学するのは血が繋がっていないからか、習慣だからか。この光景は幾度と無く繰り返されており、新一が八歳で蘭が六歳のとき、新一の妹になった頃から始まった。小学校高学年や中学生のときは兄妹で登校していることでからかわれたりもしたが、今は近所でも学校でも仲の良い美形兄妹だと噂されている。

新一は軽やかな足取りで歩く蘭を横目で見た。
昔の記憶を思い出す。蘭と出会ったのは懐しいような気もするし、最近の出来事のような気もする。
(一緒に暮らし始めて十年か…)



新一の母親は生まれて数年後に病気で亡くなり、父親の優作が男手一つで新一を育ててきた。
ベストセラー推理小説作家の優作は真面目で思慮深く、小さい頃から新一は彼のことを尊敬していた。コブ付きだが若くミステリー小説世界の名声と権威を欲しいままにしていた優作をパーティーで狙う女性は多かった。

その日も例外ではなく、あるパーティーで優作は次々と編集長に女性を紹介された。キツイ香水と上目遣いで強引に迫ってくる女性たちにうんざりしていたが、相手はそんな優作の気持ちなどお構いなしだ。編集部主催のパーティーゆえ優作も早く帰ることが出来ず、どうしようかと難儀していたところに出会ったのが女優の藤峰有希子だった。

有希子も知人の付き合いでパーティーに出席していたのだが、幼い蘭を家に置いて自分だけ外出しているのが心苦しかった。同じく新一を家に一人っきりにしていた優作と出会い、同じ境遇だということが分かって二人は一気に意気投合した。

お互いに小さい子供がいること、パートナーがいないこと、そして何より優作は有希子の明るさに惹かれ有希子は優作の博識さと優しさに惹かれた。
それから二人は連絡を取り合い、デートを重ねていった。 徐々に親密になっていく中で再婚の話が出てくるのも不思議ではなかった。

有希子の連れ子である蘭は実の父親の顔を知らない。 蘭が小さい頃に事故でこの世を去ったらしい。
だからこそ、蘭は新しく出来た父親をとても喜んだ。

初めて会った時こそは緊張していたが、家族四人で一緒に暮らすようになってからは元来の明るい性格で工藤蘭としてすぐに馴染んでいった。
新一も蘭と同じようなもので、母親の面影をうっすらとは覚えているがあまり記憶に残っていない。新しい母親が出来るのも悪くなかった。仕事が締め切り前になると家事が疎かになってしまう優作だが、母親が出来るならそんなことも無くなるだろうと思ったくらいだ。






「新一?何ボーっとしてんの?学校に遅れちゃうよ?」
「…あ、ああ」

一歩前に出た蘭は振り返って新一に向かって笑いかけた。太陽の逆光に蘭の細い腰上まである長い髪が重なってキラキラと輝く。
新一は眩しくなって両目を細めた。



有希子と蘭を家族に迎えた十年前。
軽い気持ちで父親の再婚を承諾してしまったのを、新一は複雑な気持ちで抱えていた。

何故優作は有希子を選んでしまったのだろう。

……いや、有希子を選ばなければ蘭と出会うこともなかっただろうけど。十年経った今でも変わらず幸せそうな二人を見て考えるべきではないのだけれど。
それでも思わずにはいられないのだ。

何故蘭が妹なのだろう。

考え事をしている様子の新一を置いて、蘭は交差点で出くわした彼女の親友の園子と一緒に歩き出していた。
学校が近くなり、歩いている帝丹高校の生徒が徐々に多くなる。新一は蘭の背中を目で追った。いくら遠くにいようと、その姿だけは見失うことはない。

蘭は園子から渡された芸能雑誌を見ながら談笑している。来週末に行くアイドルのコンサートについて話しているのかもしれない。この間蘭からそのアイドルについて延々とレクチャーされたのだが、知らない男を語られるのは癪にさわる為どんな人物だかはほとんど覚えていないが。ただ蘭が楽しそうに笑っているのを見ているだけでよかった。

蘭のことを、ずっと見ていたい。
そして、蘭にも自分だけを見て欲しい。

ふと、蘭が振り返り新一に向かって手を振った。ずっと見ていたことがバレたのかと新一は一瞬焦ったが、すぐに手を上げて蘭に答えた。
返事をしたことに満足したのか、蘭はすぐに前を向いて園子と話し続ける。

蘭は無意識で新一の気持ちを嵐のように掻き乱す。
誰も知らない―――誰にも知られてはならないこの燻った気持ちを。

「重症だな……こりゃ」

新一は上げたままの片手で寝癖の残る後頭部を撫でつけた。


そう、工藤新一は妹の工藤蘭を愛していた。
たぶん初めて会ったときから―――ずっと。





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