Walking On Water




「ねぇ、奇跡って信じる?」

突然の質問に、キッドは整った顔をしかめた。
「さあ?確率の低い出来事が重なることを奇跡というなら奇跡だし、想像もしなかったことが起こったのならそれを奇跡と呼ぶと思うけど?」
「そんな一般論を聞いてるんじゃないの。あなたがどう思ってるのか知りたいの」

まっすぐに見つめてくる一途な瞳に、キッドは答えをはぐらかす事しか出来なかった。
「俺は―――どうかな」
真っ白なシルクハットをより深く被り直した。
「自分のことが分からないの?」
「そうだな。俺はマジシャンだけど案外リアリストでね。人に奇跡―――マジックという夢を見せる分、その単語には懐疑的なんだ。マジックは奇跡なんかない、タネも仕掛けもある商売だから。今こうして君と話をしていることは奇跡になるかもしれないってのは分かるんだけどね」
目の前の少女は最後の一言に引っかかったらしく、「どういうこと?」と言いたげに首を傾げた。

「だってそうだろ?俺は泥棒だぜ?これで会うのは4回目なのに、警察に連絡しないし誰かを呼ぼうともしない。どうやら俺を捕まえる気はないみたいだね。このままこういう状態が続くとなると、何かの意図でもない限り奇跡になるんじゃない?……とすると、キミが毎回現場にいるのは偶然なのかな?」
「……偶然なんかじゃ、ないよ」
「じゃあ、どうして俺を見に来るの」
少女は顔を伏せ、そのまま黙ってしまった。


いつからかは覚えていないが、仕事で警察とやり合っている時、大勢のギャラリーの中で彼女を見つけた。
次の仕事も、その次の仕事の時も。
気になりだすと止まらず、キッドは仕事の合間に蘭の姿を探すことが常になっていた。 彼女の父親の毛利探偵や親友の鈴木園子と一緒に来ていたり、あるいは一人っきりで現れたりしていた。

―――ああ、今日も来ている。
知らず、彼女の姿を見て安心していたのだ。

ある日、かねてから興味を持っていた蘭との接触を図った。
キッドとして蘭の前に飛び降りた時のあの興奮は、今でも忘れていない。



艶やかな長い黒髪が顔を隠し、蘭の表情が見えない。暗闇の中でビルの点々とした鈍い光では顔色を伺うことも出来ない。
どうしたものかとキッドは頬を掻いたあと、手を伸ばし彼女の髪をそっとかき上げた。彼女は一瞬ビクッとなり後ずさりしたが、ようやく顔をキッドに見せた。

何かを言いたいのを抑えるようにキュっと引き締められた口元。頬を紅潮させ、目尻には透明な涙が潤い瞳を濡らしている。そして人を見据えるような大きな黒い瞳はキッドを捕らえて離さない。
微かに揺れる瞳の奥に潜む、落ち着いた色。

惹きつけられた。

必死になって心の奥深くの扉に鍵をかけていたのに、容易く侵入された気がした。隠し事など意味は無く、全て暴かれてしまったように。カマをかけたことも、誤魔化しも意味のないようなことに思えた。
大勢のギャラリーの中で彼女に目がいく理由。
それは………。
キッドは無意識の内に少女の身体を強く抱きしめた。

「…言いたいことがある」
突然の抱擁にも関わらず、少女は嫌悪感を表すこともなく抱きしめられたままキッドの言葉を待った。
「ずっと言いたかった…けど、言わない方が君にとって幸せだから。苦しませてしまうから。でももう限界だ」
キッドはヒュッと冷たい空気を肺一杯に吸い込んだ。

「―――正直、このまま君を連れ去りたい。好きで、気になって仕方がないんだ」
訳も分からずに。
一目見た瞬間に囚われれていたのだと思う。

キッドは堰を切ったようにそのまま言葉を続けた。
「分かってたんだ。君が俺のことを気にしてることも、俺が君に惹かれてるってことも。このままの状態でいいと思ってたけど―――参ったね、今夜の蘭の瞳には嘘がつけなかった」
少し体を離すと、蘭の頬には赤みが差していた。
真っ直ぐキッドを見つめたまま人形のように微動だにしない。

蘭はキッドがここまで踏み込んでくるとは思っていなかったのかもしれない。
キッドが軽く受け流すと踏んで、蘭はなけなしの勇気で半分本気半分冗談でキッドを試したのではないか。思いがけないキッドの告白に、驚いているように見えた。
蘭がどう出るか分からないまま、刑の宣告を待つ被告人のようにキッドは静かに時が来るのを待った。
こんなに心臓が痛くなることなんてそうそうない。


「……わたしも、あなたが好きなんだと思う」
小さい声ながらも鈴を転がしたような蘭の可愛らしい声はよく通り、空に吸い込まれていった。

「ずっと気になってたの、キッドが。見ているだけで良かった…。なのに、あなたがわたしの前に現れて……気持ちが押さえれなくなったの」
これは現実だよな?とキッドは自分の頬を抓ってみたくなった。
蘭の表情に押され衝動的に自惚れて出た言葉だったが、面と言われるとまた違う嬉しさが込み上げてくる。
「ごめん、今ちょっと嬉しすぎてどうにかなっちまいそう」
口元を手の甲で隠す。
まさか蘭が応えてくれるとは思わなかったので、キッドの仮面を被っていることを忘れ、素に戻ってしまった。ニヤける顔を何とか修正し、冷静になろうと努める。

「すげぇ嬉しいんだけどさ、辛く…なるよ?俺は泥棒だ。いつ正体がバレて捕まるのかも分からない。まだはっきりとは言えないけど、やっかいな敵がいて、命がいくらあっても足りないかもしれない」
「そんな…」
「まぁこれは例えばの話だけどね。だけど覚悟はしておいて欲しいんだ。俺と一緒にいるっていうのはこういうことだってこと。いつ日常が壊されてもおかしくない薄い氷の上を歩くような、危うい状態だってことを」
沈黙が走った。蘭の表情が強張る。
いきなりこんな話を切り出すべきではなかったかもしれない。
だけど、浮わついた気持ちと彼女を陰の世界へ巻き込んでしまっていいのかという気持ちが半々だった。

親父の殺された理由を知るためだけに盗みなんかをしている。人を殺さないことをモットーに掲げているが、アクシデントで警察官に怪我をさせたことは何度もあるし、逆に何者かによって殺されそうになったこともある。
騙し合い、駆け引き、追いし追われる存在。
それがキッドの世界だ。
全て自分のエゴの為にここまできた。

「あなたが何を抱えているのかは知らない…けど、知りたいと思うし、支えていきたいと思う」
「………」
「わたしに出来ることなんて限られてるんだけどね」
蘭が恥ずかしそうに綺麗に笑った。

これから後悔させてしまうかもしれない。
今までの全てを捨ててキッドと共に行くこと。これからの未来に幸せを約束できないこと。
覚悟を決めた蘭に全て応えることが自分に出来る術だと思った。


神聖な儀式のようにキッドは蘭の前に跪き、手の甲にそっと口付けをした。
違う世界に連れて行くことに許しを請うように。
蘭はそれを静かに受け入れた。
「俺のこと聞いて欲しいんだけど、今夜時間は空いてる?」
「ずっと空いてるよ」
すぐに切り替えしてきた彼女はやはり度胸が据わっている。
キッドは立ち上がり白いマントをなびかせながら、壊れものを扱うが如く蘭の全身を優しく包みこんだ。

茨の道だと分かっていても、未来が見えないことが分かっていても、お互いの想いが抑えられなかった。もう、誰にも止められなかった。
キッドも蘭も、偶然を装った運命を必然に変えただけだ。そうなることを望んでいたから。

奇跡なんて言葉は知らない。
知らないが、今日だけは信じたくなる気持ちになった。
一生繋がらないと思っていた気持ちを通い合わせれた瞬間の、奇跡を。

「それでは行きましょうか、お嬢さん」
キッドは無駄のない動きで蘭を促して、二人は夜の闇に溶けていった。











蘭ちゃん任意誘拐成功。良かったねキッド!
[2009.11.23]

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