たまゆら




ここのところ新一は事件続きでまともに睡眠時間が取れていなかった。
事件に継ぐ事件。
先週は杯戸での連続殺人事件の調査で三日間連チャンで警視庁に泊り込みの捜査をしたし、今週に入ってからも恋人が行方不明になったとの依頼人の頼みでマンションに行ったら密室殺人のアリバイ工作に利用されたり、偶然乗り合わせた電車での不審死を目撃して殺人を立証したり。

「工藤(くん)の周辺では殺人が起こる」という、探偵としては嬉しいことなのか悲しいことなのか何とも言い難い複雑な言葉を、警視庁からクラスメイトまで各方面から頂戴している。

立て続けにこう事件が起こると、しばらくは平穏に過ごさせて欲しいと願うのも当然のことといえた。
それら全ての事件を解決に導き、学校に来て一日中放課後までいれたのは実に5日ぶりのことであった。

新一は席に座って真面目に課題に取り組んでいた。

学校を休んだり早退したりしているのはいくら捜査協力だからといっても簡単に許されるものではない。
授業を受けない代わりに教師たちはここぞとばかりに膨大な課題の量を新一に課すのだ。自分の勝手で自由にやらせて貰って許されているので、そこは柔軟に対応してくれる学校側に感謝しているが。

それに授業に出てないからといって、授業内容が分からなくなるどころか教科書やノートを見れば大抵の問題は新一にとって問題ではない。
数学や化学や物理や生物は勉強しなくても楽に満点は取れるし、国語や世界史はノートを見れば一発で頭の中に入ってくる。
……まあ、その国語や世界史は恋人である蘭のノートのお陰だが。

今やっている古典の課題が終われば、今日は帰れる。新一は課題の質問から該当する作品を探し出し、古文を訳しだした。

蘭のノートは綺麗な字で読みやすく、色つきのペンで要点や線引きがしてありとても見やすかった。新一のノートはノートと言っていいのかどうか怪しいくらいで、教師が黒板に板書するのをそのまま写すことは滅多にないし、単語だけが並んでいることもある。
事件が気になって、授業そっちのけで事件の概要を纏めようとしたことさえある。所謂優等生ではないのだ。

そんな新一とは逆に、蘭は教師の話をちゃんと聞くし、授業中も真面目に取り組んでいる。授業を聞かずに蘭ばかりを後ろから眺めることだってあるのに、蘭は前を向いてまるで新一の視線に気付かない。
ちょっとくらい俺のこと気にしたっていいだろ?と新一がいつも勝手にむくれるのだが、蘭にとっては災難としか言いようがない。


新一は最後の問題を解き終わると、シャープペンシルを机に置いて腕を上げて軽く伸びをした。寝不足からか、目尻に涙が溜まる。
「ふぁ〜あ…あー、眠てぇ…」

ふと視線を窓の外に向けると、夕方の空はオレンジ色に染まりきっていた。
平和で静かな空間。
こんなにゆっくりと時間が過ぎてゆくのは久しぶりだった。ようやく事件から開放されたという安堵はあるが、何か物足りなかった。
現場に出れば警察とのやり取りや推理に集中して時が経つのを忘れるし、学校に来ると蘭や煩い園子や騒がしいクラスメイトたちが新一の周りを賑やかに囲む。

静か過ぎんのも考えもんだな…。

時間を持て余した新一は、腕を頭の上に持っていき左右両方に頭を傾け首を伸ばし始めた。コキッという軽い音が静かな教室に響く。

「6時15分か…。蘭のやつ、あと15分で終わるかな」
待ち合わせをしている訳ではないが、蘭は新一が教室で居残り課題をやっていることを知っているので、部活が終われば新一の様子を見に教室へやってくるだろう。
6時半には部活は終わることになっているので、あと15分の我慢だ。

家に帰ったら、蘭と一緒にご飯でも食べよう。
今日は金曜日だし、蘭も泊まっていける。
一緒に風呂にでも入って、ベッドで蘭を朝まで可愛がってやろう。

新一は夜の予定をぼんやりと考えた。
これから幸せな時間が訪れるのかと思うと顔のニヤケが止まらない。
クールでカッコイイ名探偵、と巷では噂されているが、教室には誰もおらず一人きりだし、別にどんな顔をしてても許されるのだ。
新一は緩みきった顔を直す気もなかった。

新一はプリントとノートが溢れかえる机の上を全て退かし、荒々しく雑に床にぶちまけた。腕を真っ直ぐ伸ばして机に上半身ごと突っ伏す。
横目で見る夕陽は、暖かい光が射していて新一の顔に柔らかに降り注いでいた。
「蘭…早く帰って…来い…よ……」
重くなってきた瞼の重力に逆らわず、新一は瞳を閉じてスゥっと穏やかな眠りに入った。



ゆらゆら。ゆらゆら。
温かい何かが自分を包んでいるような気がした。
疲れているからだろうか、脳が何も考えられない。
ゆらゆら。ゆらゆら。
とても心地がいい。何だ、これは?
………誰かの、手?

「―――――!!!」
急に新一は机から顔を上げた。
「きゃっ…!」
目の前には愛しき彼女の姿。
「ら、ん…!?」
蘭は手を所在なさげに上げて、驚いて大きな瞳をパチパチさせていた。

「起きた?新一」
「…え?」
「おはよう」
蘭はにっこりと笑って新一の机に肘を付いた。
「はよ…って、俺、寝てた?」
「うん。私が来たのが6時半過ぎだから、新一がいつから寝てたのか知らないけど」
慌てて教室に掛けられている時計を見ると、すでに時刻は7時を差していた。外を見ると、先ほどの夕焼けは去り夜の闇に包まれて真っ暗になっていた。

「寝たのは6時20分くらいかな。オメーの部活が終わるのがあと15分くれーだなって思ってたし、その後は知らないうちに寝てたらしい」
「あんなに大量に課題があったのに空手が終わるの待ってるくらい時間があったの?…もちろん課題は終わったんでしょうね、探偵さん?」
手に顎を乗せて蘭がからかう様に新一を見た。

「ったりめーだろ?俺を誰だと思ってんだよ。あんなもんチョロイっつーの」
「そんなこと言うと、もう私のノート貸してあげないんだからね!」
「……スイマセンでした、毛利さん」
「…宜しい!」
神妙に新一が膝に手を付いて謝ると、蘭もそれに乗って腕を組む。
プッとお互いに吹き出し、声を出して笑いあった。


「それにしても、起こしてくれれば良かったのに」
「だって気持ち良さそうに寝てたんだもん。起こせれないよ」
「確かに気持ちよかったな。何かフワフワっつーか、ぬるま湯に漬かったみたいな感じだったし」
新一は夢の中の感覚を思い出した。頭の上に温かいものが乗せられていた気がする。
―――そうだ、手だ。
起きる直前、手の温もりを感じたのだ。

「……もしかして、オメー俺が寝てるとき、頭撫でてた?」
新一が何気なく聞くと、蘭は頬を朱に染めて非常に焦っていた。
「いやあの!新一の頬に髪が掛かって鬱陶しそうに眉を寄せてたからっ。だからそのついでに髪を整えてあげただけよ!?」
「ほー…俺の髪をナデナデと弄っていた、と?」
蘭の可愛らしい行動に嬉しくなって、新一はニヤリと口角を上げた。
「イヤらしい言い方しないで!もうっ、遅くなっちゃうから帰ろっ」

このままだと新一にからかわれ続ける雰囲気を察知した蘭は話題を変えようとした。椅子から立ちあがり、床に置いてあった鞄と空手の胴着を持ち上げる。
蘭の思考と行動を見切った新一は苦笑しながらも、蘭に続いた。

「悪ぃな、蘭。帰るの遅くなっちまって」
新一も席を立ち、床に散らばったプリント類を拾い上げる。
蘭も手伝おうと新一の傍に寄ろうとすると、新一は手と視線で蘭を抑えた。蘭も何も言わず笑みを零して突っ立ったまま、片付けを続ける新一を見つめた。

「そんなの、全然気にしてないよ。最近事件続きだったから疲れが出たんだよ。お疲れ様」
「まあ好きでやってることだし、いい意味での疲れだけどな。でも寝るつもりなんてなかったのになー…体はやっぱ疲れてたのかもな」
「そうだよー。今日はゆっくりして、早めに寝なさいよ?」
「そうだな……って、オメー、今日は家に泊まってくだろ?」

何か引っかかりを感じる聞き捨てならない蘭の言葉に、新一は思わずプリントを鞄にしまう手が止まってしまった。
嫌な予感がする。

「新一疲れてるんでしょ?夕飯は作りに行くけど、今日は帰るよ。そのほうが新一も休める―――」
「待て待て待て!確かに疲れてるとは言ったけど、さっき寝たしすっかり回復したぞ!?」
「そんなこと言ったって、たった40分寝ただけで元気になるわけないでしょう?嘘言わないの。しっかり睡眠取らなきゃ疲れは取れないんだからね」

蘭は真剣に新一の体の心配をしている。
それは分かっているが。

―――今日の夜のオイシイ計画はどうなるんだ。

新一はほんの少しの睡眠がこんな事態をもたらすとは思いもしなかった。
帰るまでの道中で、どうやって蘭を説得しようか新一は頭をずっと悩ませることとなる。










新一と蘭ちゃんの会話は楽しいv
新一の脳内は事件が45%、蘭ちゃんが45%、推理小説を読むことが5%、他(サッカー、衣食住)は5%で構成されていると思います。
状況によって事件と蘭の割合は上下したりするんだけど、基本的に蘭パーセンテージは常に飢餓状態。栄養補給しないと生命の危機に陥ります。
……そんな工藤氏観を持っています。
[2009.2.25]


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