雷鳴




厚く黒い雲に覆われた空から時折カメラのフラッシュのように光る雲を新一は車の中から眺めていた。
少し遅れて、ゴロゴロ…と今にも空が鳴きだしそうな音を奏でる。今はまだ距離は遠いが、雲の流れからここ米花町に近づいていることは間違いない。

(やべぇな……)

雨は降っていないが空は何層もの雲に覆われ渦を巻きながら速いスピードで移動している。まだ午後4時なのに街中は暗く、すれ違う車はヘッドライトを付けて走行していた。
街を歩く人々も急ぎ足で駅へ向かったり、レストランの窓際に座っている若い女性のグループは心配そうに空を見上げながら話している。
新一は眉を寄せ、無意識に溜め息をついた。

「ごめんよ、工藤君。もう少しで家に着くから」
車を運転していた高木刑事は申し訳なさそうに後部座席に座る新一をバックミラー越しに見た。





今朝学校に着いた途端、殺人事件があったから来て欲しいと目暮警部から呼び出しを受けた新一は、隣にいた蘭に鞄を預けて教室に入ることなく迎えに来た高木刑事と事件現場へ急行した。
密室殺人でダイイングメッセージがあると聞かされていた為、非謹慎だがワクワクしてしまったのは事実だった。
事件自体もここ最近の中では結構難しく、容疑者のアリバイトリックを崩すのに少々時間を食ってしまった。


帰り道、高木刑事の運転するパトカーに乗る頃には2時を過ぎていた。
現場は東都といっても高速道路を使って40分くらいかかる距離で、思いのほか高速道路は混雑していた。
雲の層が段々と厚くなる中、渋滞を潜り抜け米花町に入るまでに一時間半を費やしてしまっていた。

渋滞のせいでイライラしているのだろうと見当をつけたのだろう、高木刑事は困った顔で新一の様子を伺った。

新一としては別に渋滞のせいで苛立っている訳ではなく他の理由でため息がもれてしまったわけだが、人の良い高木刑事に責任を感じさせてしまうのは本意ではない。ずっと窓の外に向かわせていた視線を戻し、苦笑いをする。
「いや、高木刑事のせいじゃないですよ。ただ、雷がこっちに来そうだなって」
「……ああ、そうだね。音も段々大きくなってるなぁ」

2人して車の窓越しに空を覗く。
と同時に、光がピカッと光ったと思ったらドーンと地響きのように音が鳴った。どこかに落ちたわけではなさそうだが、雷は着実に工藤邸に向かっているようだ。
新一は再び眉を寄せると、空に浮かぶ愛しい彼女の雷に怯える顔を思い浮かべた。





蘭は幼少の頃から雷が苦手だ。
当時、父親の小五郎は刑事だったため勤務時間は不規則で、母親の英理は弁護士になりたてで夜遅くまで仕事に追われていた。学校から帰ると一人で過ごすことが多かった蘭は、よく工藤家に預けられた。
預けられたというのは語弊があるかもしれない。大抵新一か有希子が積極的に蘭を家に呼んでいたからだ。
有希子の手作りのおやつを食べた後は、蘭と外へ出て近所の探検をしたりしていた。新一の後を付いてくる蘭はとても愛らしかった。二人して泥だらけになって帰ってくることもしばしばあった。
雨の日はおとなしく本を読んだり、蘭が見たがっていたビデオを借りて一緒に見たりしていた。

雷が鳴る夜も、いつも二人で過ごした。
毛布を被り耳を塞ぎながら、蘭は「しんいちぃ…」と涙を溜めた声で新一に抱きついてよく助けを求めてきたものだ。
その頃既に蘭に恋心を抱いていた新一はドキドキしながらも蘭を抱きしめ、小五郎か英理が迎えに来るまでずっと傍にいた。

だが小学校に上がり英理が毛利家から出て行った後は、蘭は新一に頼ることが少なくなった。
あまり新一の家に夜遅くまでいることはなくなったし、雷の時でさえも蘭は家のリビングで毛布を頭から被り、怯えながら帰りの遅い小五郎を一人で待っていた。
それはある時、心配になって蘭の様子を見に行った新一と有希子が窺い知れた光景だった。
英理がいつ帰ってきてもすぐ迎えられるように、待っていたのだろう。 あるいは、イイ子にしていればきっと母親は帰ってくると思っていたのかもしれない。
いくら新一が蘭に工藤家に来るようにいっても、蘭は遠慮がちに、しかし頑なに新一の誘いを拒んだ。

中学生になってもそれは変わらなかった。新一は蘭が限界まで甘えてこないことにもどかしさを感じていたが、それを素直に口に出すことが出来ずにいた。





新一と蘭が恋人同士になってから早一ヶ月。
可能な限り一緒にいたいから、蘭には合鍵を渡してある。今日も事件が終わってからメールで学校帰りに工藤家に来るように伝えておいたし、その為に蘭に鞄を預けておいたので、蘭が家にいることは間違いないだろう。
………間違いなのだが、天候がいただけない。
蘭はどうしているのだろう。一人で怯えて泣いているだろうか。


車が静かに路肩に寄せられ、工藤邸の前で止まった。
雷は未だ絶えず低い低音を鳴らし、光の渦を作り出している。いつ爆発するか分からないほど、雲の動きは早かった。
新一は高木と簡単な別れの挨拶を交わすと、すぐさま玄関へ向かい走り出した。


「―――蘭?」

玄関のホールに入ると、蘭の靴はきれいに並んで揃っていた。だが、いつも笑顔で出迎えてくれる蘭の姿がない。それだけで新一の心に不安が過ぎる。リビングで毛布にくるまっているかもしれないと思い急ぎ足でドアを開けたが、そこにはいなかった。

「蘭?どこだ?」

少し声を上げて名を呼ぶ。キッチンも覗いてみたが、暗くて人がいる気配は無かった。

―――まさか、という考えが頭に浮かんだ直後、ドドーーンと地響きのような大きい音が響いた。かなり近い距離で雷が落ちたようだ。
新一は一目散に二階への階段を駆け上った。





新一の自室。ベッドの上に大きな塊が、一つ。
毛布で全身が包まれていて顔は見えなかったが、こんなことをするのは愛おしい彼女しかいない。
新一は思わず笑みを零した。
先ほどの雷の音に怯えているのだろう、毛布の上からでも分かるほど震えながら丸くなっている。新一がすぐ傍ににいるのも気付かないようだった。
「蘭?」
優しく声をかけると、小さな塊がビクッと動いた。

新一は笑みを浮かべたままベッドへ腰掛け、蘭の毛布をゆっくりと取り払う。ようやく出てきた蘭は、いつも綺麗でまっすぐの黒髪がピョンピョンとあちこちへ飛び乱れ、目尻には涙が浮かんでいた。
「…新…一?」
「ああ」
「本当に、新一…なの?」
蘭は夢の中にいるように、意識がぼんやりとしていた。
「ああ。ただいま」

新一は蘭を抱き寄せようとすると、普段はなかなか甘えてこない蘭が「新一っ!」と抱きついてきた。内心驚きながらも、震える蘭をしっかりと両腕で支えながら考える。


(……これって、そうなのか?誘ってるのか?)

付き合って一ヶ月、先日ようやくディープキスに辿り着いた。
そろそろ蘭と一歩進んだ関係になりたいと密かに企んでいる新一は、自分の部屋に彼女と二人っきりという恐ろしく美味しいチャンスが転がっている状況に、その時の場面が一気に頭の中を駆け巡った。

「蘭……」
ぐっと、蘭を抱く腕に力がこもる。
顔を見ようと少し視線を下げると、瞳を固く閉じて小さく震える蘭の姿があった。
蘭の怯える姿を―――昔のように新一に無条件に甘える姿を見て、新一の欲望はどこかに消えてしまった。


腕の中の蘭は、とても小さくて、ぎゅっとしたら折れてしまうのではないかと思うほどに華奢で―――。

愛おしい。

無防備な姿を曝け出す、彼女が愛しい。
蘭を守りたい。
何者からも蘭を守ってやりたいと、強く思う。


「ごめんな、一緒にいてやれなくて。でももう大丈夫だから。俺がいるから……」
蘭の髪の毛を撫でながら、新一は蘭の身体をふわりと抱きしめた。しばらくすると、徐々に蘭の方も強張っていた身体から力が抜けてきた。
「かっ、雷っ…怖かった…っ。さっき、すごく近くでっ…」
「うん…。もう大丈夫だぜ?ほら、耳を澄ませてみろよ」

そんなに時間は経っていないはずだが、流れの早い雲は雷を連れてすでに工藤邸を駆け足で去っていったらしい。雷鳴も驚くほど小さくなっていた。ただ、静かな音を奏でながら通り雨が降り始めていた。
「……ホントだ」
「だろ?」
「ありがとう新一。何だかすごく安心したよ。昔をちょっと思い出しちゃった」
目尻の涙も隠さぬまま、蘭は満面の笑みを零した。
「バ、バーロ。別に礼を言う必要はねぇよっ…それにしても、おめー、何で俺の部屋に来たんだよ?ちょっと前だったらテレビを大音量にしてリビングでピーピー泣いてたのによ」
赤くなった顔を知られたくなくて、新一は蘭を抱きしめる手に力を加えつつ、冗談めいた口調で話題を変えた。

蘭は雷のせいでいつもと違う状況のせいか、珍しく素直になって小さい声で新一に告げる。
「だって…新一の部屋の方が新一に包まれて守られてる気がしたんだもん……」
蘭はより深く新一の胸に顔を埋めた。

それはつまり、新一の匂いのする自室の部屋で、新一のベッドで、新一の毛布でくるまって、雷の恐怖から身を守ったというわけで。
鳴りをひそめていた邪な気持ちが一気に増大する。
(コイツ、俺の理性を試そうとワザとこういうこと言ってんじゃねーんだろうな?)
新一は片手を口元にあて、ますます赤く染まった顔を隠した。
新一を煽る言動を繰り返す蘭に、こっちはもう臨界点を突破しそうだ。

蘭を本能のままに抱きしめたい。
滅茶苦茶にして、新一のことだけを考えて欲しい。


それくらい、蘭が愛しい。
愛しい……が。


先ほどまで雷に怖がっていた蘭をこれ以上怖がらせたくないのも事実だった。
ディープキスに驚くくらいだ。その先は想像するに難くない。
新一が想像の中で蘭をどう見てるかなんて、蘭には考えもつかないだろう。

新一はふと窓の外を見やった。
遠くの空に暗くどんよりとした雷雲が見える。早々と通り雨は過ぎ去り、晴れやかな天気となっていた。
窓から見える外の木の葉に付いた水滴は夕陽を受けて光り輝き、厚い雲からは幾重もの白い光線が地上に紡がれていた。

美しく晴れ渡る夕空と己の浮き立つ欲望。
突発的に過ぎた雷雨のように、新一の衝動もすぐに静まるのだろうか。

無防備に抱きついたままの蘭に、新一は天を仰いだ。
いつまでも続きそうなこの状況を何とか打破したい。でも、蘭の身体が柔らかくて気持ちいいから、もうちょっとこのままでもいいかもしれない。
渦巻く理性と欲望の嵐はより激しさを増し、一向に解決の光は差し込まなかった。










梅雨→雷雨→怖がり蘭→甘えん坊蘭→葛藤する新一
→見えない敵と戦う新一(採用)
→雷なんて忘れさせてやるよ裏展開(見送り)
という話でした。

定番上等!思春期上等!
[2010.7.13]

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