ベストタイミングを見極めるのは難しい。
新一はスプリングコートのポケットに入っている小さな箱を手で撫でながら、そう感じずにはいられなかった。


ポケットの中の




「春先っていっても、まだ寒いね」
「明日はもっと冷え込むらしいぜ?」
「そうなんだ。早くあったかくならないかなあ」

蘭と二人でこうやって並んで歩くのは久しぶりな気がする。
新一は相も変わらず事件に首を突っ込んでいて蘭とゆっくり話す時間さえ取れなかったし、そればかりか自分の生活も不規則になるほど忙しかった。
睡眠時間は数時間になることも多く、食事もまともに取れていない。
この一ヶ月はそんな生活が続いていた。
変わりに蘭と会えない日々も増えていった。
意識すると逆に想いが強くなるというもので、時間の経過と共に蘭に無性に会いたくなっていた。 会いたいだけではない、ずっと傍にいてほしいと希う想いが強くなった。
朝起きる時、学校へ行く時、事件現場へ行く時、警視庁にいる時、家に帰った時、食事を取る時、深夜遅くに眠りに就く時。
新一にとって自分の未来を描くのは単純明快だった。それこそガキの頃から思い続けていたのだ。
これから蘭に伝えることは、タイミングを計る切っ掛けに過ぎなかった。

速くもなく遅くもないスピードで新一と蘭は夜の街路を歩いていた。
しばらく無言のまま時間が流れた。 蘭とは幼少からの付き合いなので、今更会話の切っ掛けを探す必要はない。
新一は車のヘッドライトをぼんやりと眺め、たまにすれ違う人を無意識に避けながら歩みを進めていた。

薄雲の懸かった満月を見上げながら、蘭は夜空に向かって深い息を吐いた。 一歩一歩確かに歩むその姿は春を待ち構えているような思いが感じられた。
目的地までは電車ではすぐだが、歩いて行くのはそれなりの距離がある。しかし歩こうと提案したのは新一だった。
少しでも二人きりの時間を作りたくてこうして歩いているわけだが、はやり電車のがよかっただろうか。
「寒いか?わりぃ、電車で行けばよかったな」
気になって蘭を横目でちらりと見たが、彼女はさほど気にする様子もなく新一を見返した。
「ううん。私歩くの好きだし、歩いてたらだんだん熱くなってきたよ」
「…ならいいけどよ」

熱くなってきたのは新一の方だ。
いつになく緊張していることを新一は自覚していた。唾を飲み込む喉の音が聞こえるし、手は汗ばんできている。
考え抜いた末に出た結論の証が、新一のポケットで今か今かと出番を待ち構えているのだ。
それが新一を緊張させている原因だった。
別に格好よく演出するつもりはない。ありのままの思いを蘭に伝えるつもりだ。
だが蘭がどんな反応を返してくるのか、どんな答えをくれるだろうかと想像すると、楽しみであり、不安でもあった。

「でね、園子が言ってたんだけど、今アルセーヌで20周年記念やってるんだって。特別ディナーコースがあって、それがかなり豪華らしいわよ」
「そうらしいな。電話で予約したときに、いかがなされますか?って言われたからそのコースにしたけど良かったか?」
「もちろん!…でもいつものコースより値段が高いんでしょ?」
小遣い前借りかなぁ…と呟く蘭に、新一は蘭の頭を軽く叩いた。
「お金の心配なんかするなって。ここは俺が払うから大丈夫だよ」
「え…いいよ?自分で払うから」
「いいから奢らせろよ。甲斐性なしの彼氏って園子に吹聴されちゃたまんねーからな」
苦渋を潰した顔をすると、蘭はくすりと笑った。

歩いているのと緊張とで、だいぶ体温が上昇してきたのを感じた。
汗ばんだ手で白い箱が汚れないだろうかと、新一は手をポケットから出した。
だけどそわそわして、確かめるように箱を触ってしまう。
そんな動作を不自然に繰り返しているものだから、蘭が不審げな視線を向けてきた。
「新一やっぱり寒い?手袋貸してあげようか?」
「いや、いいけど…。おめー手袋まで持ってんのかよ。準備いいな」
「新一って寒がりなわりに薄着なんだもん。春先って風邪引きやすいんだから、健康管理ちゃんとしてよね」
蘭は母親のように新一を諭した。
「ちょっと、聞いてるの新一?」
「…あ?ああ、聞いてるよ」
気のなさそうな返事に、蘭はご立腹したようだ。
新一って全然人の話聞かないんだから。風邪引いてお世話するのは私なんだからねと、蘭は小さくぶつぶつと呟く。
口を少し尖らせて文句を言う蘭に、新一は静かに笑みを深めた。
小さな幸せを感じるのはこんな時だ。
自分を気遣ってくれる誰かがいる。自分の傍にいてくれる誰かがいる。

小さい頃から留守がちだった両親の元で育ったせいか、新一は一人でいることに苦痛を感じなかった。中学生からは一人暮らしだったことは余計にそれに拍車をかけた。
クラスでは友達とは他愛無い話はするが、いつもつるむ仲間は決まっていない。
表面的な付き合いといえばそれまでだが、誰かに悩みや個人的な事情を打ち明けたことはなかった。
高校生ながらに探偵という立場というのもあって深く個人的事情を話すのを躊躇っているのもあると思うが、元来新一は腹を割って話す性格を持ち合わせていないのだ。

蘭の場合は少し新一とは違っている。
小さい頃に母親が家を出て行ったため一人でいることには慣れているが、蘭は寂しがり屋だ。 高校生の今でこそ小五郎と英理の関係を前向きに考えている。 しかし小学生だった身には両親が別居という事実は辛かったはずだ。 心無い同級生がからかった回数や好奇の目に晒された世間からの噂の数も少なくはない。
蘭はギリギリまで胸の内を明かそうとはしない。
新一や園子を始め明るい性格の蘭の周りには友達が絶えなかったけど、蘭は弱さや寂しさを誰にも吐き出そうとはしなかった。
気丈に振る舞い、両親の悪口を必死で否定していた。

新一は幼稚園の頃から蘭が好きだった。
だが単純な好きな気持ちだけではなくて、蘭を守りたいと決意したのは小学生1年生の時だった。

蘭以外いらない。
蘭を守り、蘭と一生を生きていきたい。

願いは新一の夢になったが、小学生の手じゃ蘭を守りきれなかった。
未熟な自分を分かっていたし、だからこそ誰よりも早く夢を叶えようと必死だった。
身体を鍛え、脳を鍛えた。
早熟過ぎたのか、自信に溢れていた。いい気になっていた。
黒の組織の事件で再び小学生に戻った時は迂闊な己を呪った。小さな手は蘭を守るどころか、自分の身さえ防衛できなかった。

新一はポケットから右手を出した。
あの頃から成長したとは思う。
蘭の全てを受け止めきれるとは言い切れないけど、走り出した想いがもう止まらないのだ。
蘭と一緒にいたい。
新一は右手で箱の形を確かめるようになぞった。それから左手で蘭の右手を取った。

「…え?」
蘭が驚いた顔を見せてきた。
「……やっぱ、寒いし」
照れ隠しのせいか新一はそっけない態度を取ったが、蘭はふっと笑うと新一の手に指を絡ませた。
「そうだね、寒いしね」
不思議なもので、手をつないでいるだけで緊張が和らぐ感じがした。 汗ばんでいる手はもうこの際気にしないでおくことにした。
春爛漫にはまだ少し遠くて、若芽が芽を吹き出すまであと少し。
新一と蘭も新しい出発点としてこの春を迎える事が出来るだろうか。

「新一?なにボーっとしてるの?ほら着いたよ、米花センタービル!」
見上げると、今夜ディナーするレストランが入っている高層ビルが新一たちを温かく迎えていた。
新一はポケットに入っている小さな箱をギュッと握りしめ、そしてこれからの未来を想いながら蘭の手も強く握りしめた。



[2011.4.24]



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