不可侵領域




蘭が新一と同棲して半年が経っていた。
幼い頃から工藤邸には頻繁に出入りしていたが、遊びにくるのと住むのでは全く勝手が違い、蘭にとって屋敷を維持することは思ったよりも大変だった。
家中の掃除に庭の掃除。
前者は間取りが広くとってあるので部屋数はそんなに多くはないのだが、その分部屋が広くて天井が高い。 後者は芝生や草木の手入れに大半の時間を費やしてしまう。
気合を入れて一日中取りかかっても、全然時間が足りないのだ。

有希子の好みらしく見た目と実用性を兼ね備えた家具一式は実家よりも使い勝手は断然良かったが、なにしろ高級な調度品が多く、掃除をする度に傷を付けないか毎回気を使う。
美しく装飾された飾り棚を昔はかくれんぼで足台にしていたという事実は闇に葬り去りたいくらいだった。

庭の掃除は新一のいる週末にとっておくとして、問題は家の掃除だ。
「さて、始めますか」
朝から蘭は張り切って掃除を始めていた。
まずは一階を片づけることにした。何冊あるのか当人も分からない世界中の推理小説が並ぶ工藤家の図書室、何人も客を迎える事の出来る玄関、二人でも悠々に入れるお風呂場、機能的で使いやすいダイニング、そして最後に開放感溢れるリビング。

リビングに掃除機をかけ終えたところで、蘭は一息ついてソファに腰掛けた。
「ふぅ…やっと一階部分が終わった」
掃除だけで一汗掻いてしまった。外から届く微風が心地よい。
光が柔らかく差し込む明るいリビングはとても気持ちがよく、ダイニングと共に特に蘭のお気に入りだった。
L字型に配列されたソファは本革で体を預けると本当に楽でいつも眠ってしまいそうになるし、見るからに高そうなアンティーク調のテーブルはその上にコーヒーを置くだけで優雅な気分にさせてくれる。

「そういえば、新一っていつもこのテーブルに足を乗せるんだよね」
蘭のお気に入りだからこそ気になったのだが、新一はソファから伸ばした足を組んでテーブルの上に乗せるのが常だった。
『新一っ、足癖悪いよ!』
何度注意しても直らないので、ワザと新一の足を蹴り跨いでみたら、 『オメーの方が足癖悪いだろっ!』と逆に怒られた。
それが原因で些細な口論となったのはつい最近の話だった。
喧嘩して、でも寝るときは一緒のベッドで。そして最終的には仲直りして。
新一と迎える朝は蘭にとって何よりの幸せだった。

毎日を過ごすこの家が好きだ。
幼い頃の思い出も、現在進行形の思い出も。そして、未来でも新一とこの家と共に過ごしていきたいと思う。

思い出にふけてしまったが、まだ二階の部屋が残っている。
蘭は時計を見た。まだ外は明るいが今日中に全てを終わらせることは無理そうだ。
明日も続きをやるつもりだが、少しでも進めておこうと思い蘭は二階に続く階段を上った。


使い勝手も慣れてきた工藤邸だが、今でも入るのに躊躇する部屋がある。
ロサンゼルスで暮らしている新一の両親である優作と有希子の寝室と優作の書斎―――今は新一が書斎として使っている部屋だ。
一番奥にある寝室は出入りがないので優作と有紀子がアメリカから一時帰国する際に掃除をする程度だが、その手前の書斎は新一が探偵の仕事をするときに使用しているため、必然的に掃除が必要となる。
定期的に掃除はしているのだが、床掃除や棚の埃を軽く拭くだけで念入りにしたことはない。プライバシーの問題であるし、探偵という仕事柄機密事項な資料もたくさんあるだろうという蘭の配慮だった。

蘭自身も巻き込まれた場合は別だが、新一が関わっている事件を知ろうとは思わない。
新一の方も極力事件と触れ合わせないよう蘭を気遣っているのが分かる。夜遅くまでパソコンに向かいキーボードを打ち込む姿を見かけるが、集中しているのか蘭に気付くことはない。邪魔をしたくないから、蘭も新一に声を掛けずに眠りに就く。

例え一緒に暮らしてるとはいえ、ずかずかと土足で入り込んではいけない聖域というものが人にはある。
新一のテリトリーがこの書斎のような気がして、何だか気が引けるのだ。
少し寂しさを感じつつも、あまり書斎には入らないようにしようと心に決めていた。


蘭は誰もいないはずの書斎の扉をゆっくりと開けた。
主に優作が小説を執筆する為に使っていた部屋で、子供の頃は近づく機会がなかった。
「お邪魔しまーす…」
蘭は伺うように部屋に入った。
手に持っていた掃除機を床に置いて、スイッチを付ける。

床には複雑な模様が編みこまれている高そうな敷物が敷いてある。
細かな装飾の技術が光る低いテーブルを挟んで皮製のソファが二つあり、その奥には重そうな厚みのあるこげ茶色の机と座り心地の良さそうな椅子が並ぶ。 左右の壁には棚が置かれ、どちらも洋書や医学書などが綺麗に収められていた。
「いつ見ても重厚なお部屋ね」
シンメトリーな部屋は少し無機質で、完璧で見事な調和が逆に蘭を落ち着かせなくした。
「お化けでも出そうな…」
言葉にして蘭は後悔した。ブンブンと首を振って頭に一瞬浮かんだ恐怖を振り払い、蘭は無意識に掃除を急いだ。

部屋の中央にある机の上には、新一が事件をまとめるときにいつも使用しているパソコンが置いてある。大きなディスプレイは電源が落とされていて真っ黒だった。
ちょっとだけ居心地が悪かったのかもしれない。 空気を入れ替えようと、少しだけ窓を開けた。
外から入ってきたひんやりとした風で蘭の髪がふわりと揺れる。
蘭は掃除に集中することにした。



何とか掃除を終えると、エプロンのポケットに入っている携帯が鳴りだした。
取り出して画面を見ると、事件で現場にいるはずの新一からの電話だった。帰りが遅くなる連絡かなと蘭は思いながら、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「蘭、今家にいるか?」
「うん、家の掃除してるところ」
「そっか。悪いんだけどさ、俺の書斎のパソコンから今から言うデータ引っ張って、警視庁にファックスしてくれねえか?」
「え…、い、いいの?」

新一が蘭に事件のことでお願い事をするなんて珍しい。
しかも事件に関する書類なんて、蘭が扱ってよいものなのだろうか。
意外なほどに軽いノリに、蘭は思わず神妙に訊きかえした。
「何が?」
「ううん、な…なんでもない」
「事件のデータだから戸惑ってんのか?それなら大丈夫、事件の要点を分かりやすく俺がまとめただけだから、事件に関する写真や個人情報は入ってねーよ。つーか、そういうのは警視庁のパソコンからしかアクセスできないって」
「そっ、そうだよね…」
「掃除してんなら、あとで書斎も掃除してくれるか?オメーあんまりあそこに行かないけど、父さんが趣味で集めた本があるだけで滅多な物は何もないぜ。たまに俺も本読みながら知らない内に寝てるしな」
新一は明るい声で笑った。

特別な、誰もが立ち入ることの許されない新一だけの部屋だと確信していたのがあっさりと崩されてしまった。
真面目に気を使っていた己を振り返る。
気負っていた気持ちは、どこに持っていったらいいのだろう。
「……分かった」
精一杯の繕った返事をすると、蘭は覚束ない足取りで歩き出した。

すぐにパソコンを立ち上げる。間もなくしてパスワード画面に切り替わった。
蘭は繋がったままの携帯電話に手を伸ばした。
「ねぇ新一、パスワードは?」
「4869」
「4869っと…。アンタって相変わらずホームズフリークね」
「当たり前だろ?」
妙に誇らしげで、蘭は笑みを零す。
軽快な起動の音と共に現れた画面は、蘭を驚愕させるのに十分だった。
和やかな空気が止まったのを蘭は感じた。
「……………新一」
「あん?」
「あの………壁紙……」
蘭の声は電話越しでもはっきりと分かるほどに小さくなっていった。
「壁紙?……あっ!」
新一は思いもよらない失態を犯したことに気付いたようだ。
蘭の目が釘付けになっていたのは、蘭の水着姿がパソコンの壁紙になっていたから―――。

「…………」
「ちょっと待て蘭、落ち着け。早まるな。それはだな、園子が勝手に押し付けてきたやつだ」
新一の声は明らかに上擦っており、いつよもり数倍早口だった。 落ち着けと言いたいのは、蘭の方だ。

被体者がいいのかカメラマンの腕がいいのか、真夏の太陽の下で弾ける蘭の健康美な全身姿が収められている。
濡れた髪をかき上げながら海から戻って来る時を園子に撮られていたらしい。自然体な笑顔をカメラに向けているが、蘭はその瞬間を全く覚えていなかった。
「……これ、この夏のときの?」
「そう。俺は事件で行けなかったから」
先週園子が家に遊びに来て写真をたくさん持ってきてくれたが、こんな写真はなかったはずだ。
過去の経験からすぐに経緯は想像できた。きっと園子が蘭のいない間に、写真のデータを新一にそっと渡したのだろう。

沸々と羞恥心が込み上げてきた。いくら彼氏でも、糾弾しないと気が済まない。
「写真を撮ったのは園子でも、壁紙にしたのは新一でしょ!信じらんないっ。バカッ、変態っ!貰ったのこれだけじゃないでしょ?このパソコンにファイルが入ってるんじゃないの!?」
蘭はマウスを手に取ると、すかさずドキュメントファイルのアイコンをクリックしようとした。
「わっバカ、待てって!」
「なによ?」
蘭がこれから取ろうとする行動を電話越しに瞬時に察知したらしい新一は、慌てた様子で制止した。
「あー…えっと…、オメーはねえの?隠れて撮った俺の写真」
「なっ、ないわよ!」
思わずムキになって声が上擦ってしまった。

実は、新一の寝ているときにこっそり撮った写真が何枚か携帯に入っている。
何気ないときに密かに見ていたりもするのだが、内緒で撮って一人で楽しんでいたものなのでかなり後ろめたい。
新一も私と同じだった……?
寂しいときとか、ふとした時に好きな人のこと思い出したくなるのかな?

いきなり意気消沈した蘭の気配を感じ取ったのか、新一は言葉を続けた。
「なぁ蘭、今回は見逃してくれねぇか?…もちろん蘭が嫌だったら壁紙は変える。だけど、オメーの写真を消すのは嫌だ」
堂々たる主張に、思わず蘭は吹いてしまった。
自分勝手で強引で我が儘。
そんなところも好きだなんて思ってしまうのは、もう末期かもしれない。
「……分かった。そのままでいいよ」
「サンキュ。…じゃあ、まだ事件が残ってるから」
「あ、ファイル、すぐにファックスしておくね」
「頼む。夜にまた電話する」
「ん、待ってる」

携帯電話を切った蘭は、資料をファックスする手筈を整えた。後は一階にある電話機から警視庁に送信すればいい。
蘭は壁紙をそのままに、パソコンの電源を切った。
資料と掃除機を持って、書斎から出る。
その場で携帯をもう一度取り出して、新一の寝顔の写真を見た。
蕩けそうな笑みをしながら、蘭は足取り軽く階下へ降りていった。




蘭は知らなかった。
パソコンの中には、蘭の想像を遥かに超えた枚数の写真が入っていることを。
中にはこれまで園子から貰った写真と一緒に、新一が内緒で撮った蘭のキワどい写真がいくつか入っていることも。











以上、迂闊大王と天然娘さんでした。
蘭ちゃんは新一の寝顔しか撮ってないけど、新一はアレ用(どれ用だ)の写真も着々と増やしてるはず。変態むっつり工藤さん、ええ、大変好みです。
更に言うと、新一はパソコンだけじゃなくて携帯にも蘭写真が大量に保存されてるはず…(原作某C君の行動より参照)


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