悪魔と天使




新一の目の前には、小悪魔がいる。


日曜の午後、工藤家の部屋。昼過ぎに蘭が新一の家を訪ねて来てアップルパイを作っていた。すでにパイ生地は作ってあったらしく、生地が溶けない内にすぐに冷蔵庫へと入れられる。続けて蘭は持ってきた袋からリンゴを出すと手早くフィリングを作る作業に入った。

「何か手伝おうか?」
手持ち無沙汰にしていた新一は、真っ赤な紅玉を包丁で綺麗に剥いていく蘭に声を掛けた。
「いいよ、すぐに出来るから。あ、そこの棚の中からシナモンの瓶出してくれる?」

たった今手助けはいらないと言ったのは何処の誰なのか。新一は苦笑しながら素直に蘭が指を差した戸棚に向かった。俺の方が棚に近いからという単純な理由だからだろうが、お願いをされると弱く、滅法蘭には甘かった。

久しぶりに引き出しを開けると、いつの間にか調味料が増えていることに気付いた。知識としてハーブ類などの名前と用途は知っているが、自分で使おうとは思わないものばかりだった。
付き合い始めてからというものの蘭が新一の胃袋を預かっていて、彼女が工藤家で三人分の夕食を作りタッパに詰めたご飯を小五郎の待つ家へ持っていくことも日常的になりつつある。
結果的に、工藤家のキッチンは蘭専用のキッチンとなっていた。物の位置は最早蘭の方が把握している。

「シナモン、シナモン…と」
数ある小瓶の中からシナモンの瓶を見つけると、蘭に手渡した。
「ありがと」
「どういたしまして。リンゴ煮てくの?」
「そう。良い匂いでしょ?」
鍋にバターを溶かし、刻まれたリンゴが一気に投入された。蘭はそれを焦げないように丁寧に混ぜていく。料理には興味がないが、料理をしている蘭には興味がある。新一はリンゴが煮詰められ色が変色していく様と蘭を面白げに眺めていた。
「ねえ新一」
「んぁ?」
「事件が解決したばっかりだし、疲れも溜まってるでしょ?部屋でちょっと寝てこれば?」
蘭に背中を押され、新一は追い出されるようにキッチンから追い出された。
「おっおい蘭…」
「いいからいいから。美味しいアップルパイが出来たら呼んであげる」
ドアを閉められ、新一は廊下で一人ただずむしかなかった。

「………」
体よくキッチンから追い払われた気がする。俺がいると邪魔ってわけか?
蘭のヤツ、俺に会えなくてちょっとは寂しくなかったのだろうか。この数日は殺人事件の調査で睡眠もままならないくらい忙しくて、蘭とは電話で話しただけだし。
蘭はここ数日の俺の生活を知っているから休息は取れるときに取った方がいいと思ったのだろう。配慮してくれるのはありがたいが、徹夜には慣れっこだし眠気も特に感じない。それに、蘭がいるだけで疲れが取れるのだから。

新一は自分の部屋に行くのを止めて、仕方なしにリビングに腰を落ち着けた。丁度いいからと先日の事件資料をノートパソコンに纏める作業を始める。静かなリビングにキーを叩く音が響いた。隣のキッチンからはグツグツとリンゴを煮詰める音が聞こえてきた。時折、蘭の楽しげな鼻歌も聞こえてくる。

平穏な時間は久しぶりだ。蘭を感じることができる空間にいるだけで新一は安らぎを感じた。この時間を何よりも大切に思うし、守りたいとも思う。
自然とタイプする手の動きが速くなる。集中力が増し、事務処理を手早くこなしていった。



「あれ、新一?部屋に行ってたんじゃなかったの?」
蘭がエプロンの紐を解きながらリビングに入って来た。自室で寝ていると思っていたのにパソコンに向かっていた新一を見て吃驚しているようだった。
「ああ、あまり眠くもなかったしな。お陰で事件の資料まとめれたし。…よし、これで終わりっと」
新一は保存ボタンを押すと、出来上がった資料にパスワードを掛けて電源を切った。一仕事終えたとばかりに腕を上に伸ばす。
「人の好意を無駄にすると後でしわ寄せがくるよ?もし倒れても看病なんかしてあげないんだから」
蘭は呆れた様子で新一の肩を揉み解し始めた。
「いてててっ。強すぎだって!」
「ほら、筋肉がガチガチ。ダメよちゃんと運動しないと!お父さんみたいにすぐ『あ〜疲れた』とか言って、競馬の雑誌を丸めて肩叩きする羽目になるから」
「おい…」
「不規則な生活してないで、ちゃんと自分を労わってっていう話!」
一層手に力が加わったのは照れ隠しだろうか。 直接的な言葉を掛けてこないのが蘭らしいというか、いつも蘭に心配をかけていることを実感する。
それでもしょうがないなという風に笑んでいるのは、探偵業のことになると寝ることを惜しんででも最後まで事件と向き合うことが分かっているからだろう。そういう時は俺が素直に言う事を聞く奴ではないことを知っている。

新一は暫く蘭に体を預けて好きなようにさせた。強めの握力が逆に心地よくなってきて、目を閉じて蘭の手の感触を堪能する。揉み解す指の動きに欲望がもたげてきたのを頭の片隅に感じながら、気分はさらに上昇した。
「それで、パイの方は出来たの?」
「うん、あとはオーブンで焼くだけ」
能天気に寝てるであろう新一の様子を見に行こうと思ってたのにと、蘭は笑った。



アップルパイを待っている間に何をしたかというと、リビングで蘭は数学の課題をしていた。明日提出するプリントがあるのだ。俺はすでに授業中に課題を解き終えていたので、蘭に勉強を教えることにした。
だがそれは忍耐が求められると気付くのにそう長くは掛からなかった。

「新一、ここの問い2に『0≦x≦πのとき y = sinx + 2cosx の最大値M,最小値mを求めなさい』ってあるんだけど…」
「…ああ」
「この公式を使って変換すればいいのよね?」
「…ああ」
数学の問題に意識が向いている蘭は新一の投げやりな返事を気にも留めていない。数学が少し苦手な蘭は時折考え込みながらも手を動かして問題を解いていく。
蘭の肩揉みで気持ちが良くなって、眠気が今更襲ってきて寝ぼけているような生返事しか出来ない訳ではなかった。蘭の質問タイムは新一にとって拷問でしかなかったのだ。

つまりのこと。蘭が新一に質問するたびに蘭が前かがみになって、薄いニットの開いた胸元から豊満な谷間がチラチラと見えるのだ。先ほどはエプロンに隠され見えなかったが、透明感のある張りのある肌は嫌がおうにも目に入ってくる。
邪な気持ちを抱くのは男の性であろう。愛しい彼女を目の前にすれば尚更だ。
マッサージから続く彼女の無意識な行動が新一を苦しめる。 蘭が一生懸命に課題をしているのに、たまには我慢強くなろうと自制心と欲望を戦わせているのだが、それも風前の灯に等しい。

大体蘭は可愛過ぎるのだ。感情も表情も豊かな彼女は色んな顔を新一に見せてくれる。嬉しそうな顔、怒った顔、悲しい顔、困った顔、恥ずかしげな顔、俺を求めてくる顔も。
「………」
思考回路がどうしてもそっち方面へ行きたがってるらしい。ここら辺で止めておいた方が良さそうだ。
新一は少し気持ちを落ち着かせようと、蘭の背後にあるソファに移動した。
これなら胸元が見える心配はないし心の平静を保てるはずだ。蘭の顔が見れない残念なことにもなるが。
これで暫くは持つだろうと安心していた。

「ねぇ、この答えで当ってる?」
蘭が振り返って新一を見た。
腰を捻ったことで腕に押しつぶされた胸が強調され、より深く切り込まれた谷間が新一の視線を釘付けにした。しかも一層悪いことに、ソファに座っている新一から見る蘭の上目遣いが理性を崩壊させる。
ワザとやっているとしか思えないが、蘭の動作一つ一つがどれ程新一を煽っているのか知らないのだろう。 無意識だからタチが悪い。
ハァ、と新一は溜め息を一つついた。
「この小悪魔め…」
「え?」
白旗を掲げた呟きは蘭の耳に届かなかった。



「蘭、休憩しよ。おいで」
両手を広げて蘭を誘う。もう少し後でいいんじゃない?と問う蘭に有無を言わさない笑顔でそれを拒否した。
あっさりと投げ出された自制心は宙を漂い、しばらくは戻ってこないだろう。
日曜に彼女と二人っきり。家に誰もいないというシチュエーション…親は元々いないが。しかも事件で警察に要請されない貴重な日。
どこに我慢する必要があったのだろうか。今となれば一人で葛藤していた時間は無駄としか思えなかった。
蘭には悪いが、蘭が悪いのだからしょうがない。


蘭は教科書をテーブルに置いて渋々新一の膝の上に乗った。
「どうしたの急に。休憩するなら部屋で寝てきた方がいいんじゃない?」
「いや、ここでいいよ。…なぁ蘭、俺のことどれくらい好き?」
「何よいきなり」
いきなりぶつけられた質問に蘭は戸惑っているようだった。手で頬に優しく触れると彼女はくすぐったそうに顔を傾げた。冗談半分に笑って流されそうな雰囲気を、新一は真剣な眼差しで払拭した。
「いいから」
「……えっと、これくらい?」
蘭は恥ずかしがりながらも両手いっぱいに広げてくれた。頬を赤く染めた顔は可愛い。だが蘭の答えは新一の望んでいた答えではなかった。そんなもんかよと、思わずガクリと頭が下がった。

「なによー、新一はどれくらいなのよ?」
新一の反応にムッとしたのか、蘭が口調を荒げた。
「両手で足りる長さじゃねーよ。ガキの頃からオメーが好きだったんだぜ?当たり前だろ」
「ガキっていつのことよ?」
「蘭を女の子って意識しだしたのは小学校に上がる前かな」
「新一ってわたしのことそんなに前から好きだったの!?嘘…」
蘭の驚愕した表情に新一の方が目が丸くなる。
何やら嫌な予感がする。なんだよ、嘘って。
「嘘じゃねーよ。つーか、おめーはどうなんだよ?」
「えーと…高1になる前の春休みに新一とLAとNYに行ったじゃない?あの時よ」
「…………」

あの旅行の時かよ…!
蘭と二人で親父とお袋の住むアメリカへ遊びに行った時の映像が頭の中で蘇る。殺人事件に巻き込まれたりして蘭にとってあまりいい思い出がないはずだ。事件の記憶を無くす程辛い思いをしたというのに、いつ俺を好きになる要素が?
どれがきっかけで新一に惚れることになったか知りたいがそれは後でゆっくり聞くとして、驚くべきは蘭の片思い歴だ。

コナンになってすぐに蘭の告白を思いがけず聞いたことがあるが、そんなに短いとは思わなかった。高1の春休みから高2の現在までというと、1年と半年。1年半なんて自分の10分の1しかないではないか。
その長さの違いに愕然とする。幼い頃から蘭への恋を自覚していた自分よりも多少は短いとは思っていたが、まさかここまでとは思ってもみなかった。

好きの大きさが違って当然な気もするが、それに納得できるほど大人になったつもりはない。エゴも承知だが、蘭には俺と同じくらい好きでいてもらわなければ困るのだ。
どうやって伝えようか、どれだけ蘭を好きなのかを。
10年分の思いをどうやって伝えたらいい?

「新一?どうしたの、黙っちゃって」
蘭は手を顎元に当てて何事か考えている新一に気付いた。
「……10年分オレの方が気持ちが大きいわけね」
「え?10年?」
突然、新一は蘭が逃げないようにしっかりと腕を捕まえた。驚く蘭を他所に、真顔でゆっくりと蘭に詰め寄る。
お互いの顔が徐々に近づいていった。
呼吸の音すら聞こえそうな無音の世界。
蘭は体が硬直して身動き一つ取れない。瞳を、逸らせない。

妙な雰囲気になっていると蘭は直感で感じていた。新一が怒っているのは分かるが、何に対して怒っているのか分かっていない。蘭は慌てるように何とか今の状態を抜け出そうと試みた。
「あっあの、私宿題を…」
俺は蘭の言葉を聞いてない振りをした。
彼女を追い詰め、そして。

ピピピ……ピピピ……

鼻の頭と頭が触れ合う手前で、二人の時が止まった。
タイミング悪く無常にも―――蘭にとっては助けの音である―――オーブンがアップルパイを焼いたことを知らせた。そういえばと、リンゴとシナモンの甘い香りが部屋中に充満していることに気付く。くそっ、いい所で…!

蘭はシメたと言わんばかりに嬉しそうな顔をして新一から顔を離すことに成功した。
「パイが焼けたみたい。すぐに取りにいかないと焦げちゃうから」
蘭はあっさりと新一から降りて離れた。
捕らえたはずの瞬間が嘘のように日常の空気に弾け飛ばされた。何事も無かったように蘭もいつもの調子に戻る。
「お茶にしよっか。コーヒーでいいよね?」
「……ああ」

上手く逃げられたことにガッカリしたが、時間はまだある。
いつ蘭がアメリカ旅行で俺を好きになったか詳しく聞かなければならないし、いかに蘭のことを大切に思っているか純粋な彼女にとくと吹き込まなければ気が納まらない。
数学の課題なんて後回しだ。ベッドの上でもどこでも教えてやる。

そうと決まれば、まずは腹ごしらえだ。
「すげぇ美味そうな匂いだな」
腹に一物を抱えた新一は妖しい笑みを湛えた。キッチンに行って背中を向けた蘭には見えていない。俺の表情も、今考えていることも。
探偵とは容疑者を調べ証拠を探し真実を陽の元に晒すことなり。幸運なことに、捕まえることも言質を取ることも得意中の得意だ。

「すぐに持って来るから待っててね。焼きたてのアップルパイとバニラアイスの組み合わせが最高なの!」


そして、目の前の天使は振り返って無邪気に笑った。










蘭ちゃんの前半は無自覚小悪魔、後半は無垢な天使で〆。
新一の前半は欲望に耐えようとした堕天使(ちょっとキビしい)、後半は欲望にまみれた悪魔と成り果てましたとさ。めでたしめでたし。
このあと新一は蘭ちゃんを問い詰めて、NY殺人事件で新一を好きになったはいいがそのことを忘れていたという事実を知ります。ドンマイ新一!
これはともかく天使の日おめでとう蘭ちゃん!大好き。
[2009.10.4]

再アップ [2009.11.5]
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